「生ける権威」マタイ連講[051](母の日礼拝)
聖 書:マタイ福音書8章5〜13節
主は山上の説教を語られて、その御足でカペナウムにお入りになります。そこで早速一人の百人隊長が、ちょうどツァラアトに冒された人と同じように、イエスさまのみもとに来ます。彼らはどちらもユダヤ人からすれば神の国の外にいる人々です。百人隊長の「主よ、あなた様をわたしの屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」というお返事も、彼の敬虔さの現れだと読むこともできますが、ユダヤ人のラビをローマ兵の自宅に迎えることが相応しくないことは弁えています、という至って良識的な返答だったのです。イエスさまがツロやシドンの辺りを通過なさったときにカナン人のお母さんが、悪霊に憑かれた娘を助けて欲しいと頼み続けたときも、イエスさまはご自身がイスラエルの家の失われた羊たち以外のところには遣わされていないとお応えになりました。これも決してイエスさまはお母さんを冷たくあしらわれた訳でなく、当時の良識と弁えをお示しの上でご自身の使命を果たされるのです。
イエスさまが神さまの偉大なみわざをなされるときに、確かに自然の法則や私たち人間の習慣や決まり事などに縛られて思い通りにことが進まないということはないのですが、だからと言ってイエスさまは、私たちの世界の秩序や良識を軽んじなさって突き進めなさらないと収まらない方ではないということです。主イエスさまのみわざは私たちの日常の只中で十分に、何にも妨げられず力強く実を結ぶのです。
さて、この百人隊長の懇願、しもべの中風の癒しは私たちに大きな希望をもたらします。百人隊長とそのしもべの身に起きた癒しのみわざが、このとき限りの特殊な出来事ではなくて、これから福音書の中で繰り返される様々な癒し、奇蹟、赦しや回復、そして福音書の世界の延長線上にある教会の歴史の中で重ねられていくあらゆるみわざの骨格を明らかにすることになったのです。百人隊長のしもべが癒されるために鍵となる二つのことが、このとき浮き彫りになります。そしてこれ以降あらゆるみわざにこの二つの鍵が様々な形で現れ、あるいは暗示されて、人々の希望となる様子が福音書に溢れるのです。
1.第一の鍵は「権威」
鍵の一つは百人隊長の口から明かされている「権威」です。百人隊長は自らの身を以て権威が如何にことを起こすのかを描いてみせます。権威ある者が心一つを抱き、その心をことばに発するならば、その通りになる。自分の兵士に指示を出せば、兵士たちはそのとおりに動く。彼は自分に理解できる仕組みの中でイエスさまが権威ある者であられることをそのまま受け入れたのです。しかもその権威が彼の持っている権威とは次元の違う規模のものであることを受け入れたのです。兵士たちやしもべたちが言うことを聞く、というレベルではなくて、病が言うことを聞く。ツァラアトが言うことを聞く。そしてこの先私たちはこの福音書を読み進めながら、この百人隊長の見立てが決して大袈裟な話ではなく、実にその通りであることを確認することになります。
イエスさまの聖言を私たちが今日も尊ぶのは、ただ単に私たちの心情に寄り添う感動的な、暖かいおことばだからではなく、そのおことばを告げられたイエスさまが権威をお持ちで、仰せになられたとおりになることを確信しているからなのです。イエスさまの言われた通りにしようとするならば、相当勇気を振り絞らなければならないような戒めもあります。それでも私たちがそのような聖言の通りに生きようと踏み出すのは、その大胆なお言葉には権威があることを弁えているからです。イエスさまが直にお告げになられたおことばも、イエスさまをあらゆる方面から指し示す聖書の聖言の全ても、同じ権威の下にあるので、私たちは大いに信頼を寄せるのです。
2.第二の鍵は「信仰」
二つ目の鍵はイエスさまご自身のおことばに込められている「信仰」です。主は百人隊長の精一杯の懇願と告白を受け入れなさって、驚かれるほどに喜ばれて、「これほどの信仰」と紹介なさったのです。しかもイエスさまは百人隊長の告白を、ついてきた人たちに紹介なさったのです。
このときイエスさまは群衆に一つ気がかりなことを仰せになります。「御国の子らは外の暗闇に放り出されます。」そして「そこで泣いて歯ぎしりする」つまり後悔すると言われるのです。もちろん「御国の子」というのは一般的にイスラエルの民を指すことばですから彼らに対する警戒だと受け止めて良いのです。しかしこの百人隊長の出来事はまだイエスさまのみわざが始まってまもない時期です。宗教家たちの反対や迫害はまだ目立ってイエスさまに向けられてはいません。つまりこれは、神さまの御心に背を向けてしまっている人々への断罪や戒めというよりは、未だそのような躓きや逸脱が起こる先に予め警戒をなさって、人々が夢誤った道に進み、神さまの恵みと祝福の世界から飛び出してしまうことがないように、ついて来る人々が誰一人として暗闇に放り出されることのないように、ご自身の群れをお守りになるのです。カペナウムの町にイエスさまについて入る人々の群れも、この福音書を最初にマタイから手にした初代教会の群れも、そして今日この福音書を読みながらイエスさまの聖言とみわざに心を傾ける私たちをも、イエスさまは誰一人失われることがないように、ご自身の権威を惜しみなくお示しになり、ご自身のお心をお知らせになり、何よりも信仰を働かせてイエスさまに全幅の信頼を寄せる確かな生き方へとお招きになるのです。そして「あなたの信じたとおりになるように」と報いてくださるのです。
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