「王権はユダを離れず」創世記連講[72]
聖書:創世記49章1〜15節
今朝御読みした箇所にはヤコブとレアの間に誕生した六人の息子たちへのことばが記録されています。特に四人目ユダへのことばが心に通っています。
長男ルベンには惜しい人、勿体無いことをした、という預言。長男としての神からの特別な祝福を無駄にしてしまった男として他の兄弟たちへの戒めとなっています。シメオンとレビについては、恐らくディナの事件を想起して、一族が居場所を失う窮地に陥ってしまったのはこの二人の「激しい怒り」に任せた立ち居振る舞いを思い起こし、子孫への戒めを残しています。
さて、今朝は特に四人目のユダへの聖言に心を傾けたいと思っています。ユダについておさらいをしましょう。①レアは四人目が誕生したとき、ここまで彼女を顧みて下さった神を称えて「ユダ(讃える)」と名付けました。②弟ヨセフを他の兄弟たちが害しようと企てたとき、彼を殺害せず行商人に売り渡して銀貨を得ようと提案します。この是非は判断の分かれるところです。③また、ユダの息子たちが子孫繁栄の祝福を軽んじたときに、嫁のタマルが自分の身を投げ出してまでその祝福をユダの子孫にもたらそうと乗り出した事件がありました。ユダは最初、彼女の意図が分からず彼女に怒りを向けますが、やがて真意を悟り自らの非を認め改めてタマルを一族に迎え入れました。④それから、後年になって大飢饉の中エジプトに降り、エジプトの大臣と交渉をするときに、様々と問い詰められたのですが、ユダは良心の呵責に従って、過去の過ちを悔いる柔らかさを持っていました。そして自分の家族の将来を担保にしてでもヤコブ一族の生き残りのために尽力したいと乗り出した、ユダはそのような息子でした。
1私たちのモデルとしてのユダ
彼に対してヤコブは多くを語ります。ユダは勇猛なライオンに例えられています。この獅子を脅かして「これを起こせる」ものはない。この預言が意義深いのにはいくつか理由があります。一つにはユダという人物と私たち自身を重ねて読むことができます。彼は決して聖人君主ではありませんでしたし、月並みに失敗もしました。でも彼は自らの良心に忠実でした。この素質は信仰者にとって、また信仰の道に入ろうかとお考えの方々にとりましてこの上なく大切なところです。頑固にならず、傲慢にならず、正しい道が示されたなら、その道を選び取る志。これは神さまが私たちに聖書の聖言をとおして語り掛けてこられたときに活かされる素養です。人の目には謙虚で、もしかすると弱々しくさえ見えるかもしれませんが、その実ライオンのように強く、何事にも揺るがされることなく、いったいどんな災難が、不幸が、降りかかれば、「これを起こせるだろうか」と驚嘆されるほどの強さを得るのです。
2イスラエルの歴史の中のユダ族
ただ、ユダは単に私たちの姿と重なるだけの存在ではありません。実は歴史的にも重要な人物なのです。イスラエルの歴史という点から読みますと、ユダに語りかけられた預言は、文字通りこの後遠い未来、ユダの子孫に実現する王権のことを予め言い当てたことばだったとも言えます。「王権は離れない」「王笏は足の間を離れない」。王笏とは王の権力を象徴する杖のことです。11〜12節の預言はその期待をさらに大きく膨らませるものでした。ろばとぶどうの木の部分、そしてぶどう酒と衣服の例えの部分です。ろばは当時の人たちにしてみれば野良仕事のために働く家畜。一方ぶどうの木は農家が丁寧に手入れをして栽培する果物の木です。ろばをぶどうの木につなぐ、とは労働用の家畜に上等な果実であるぶどうを欲しいままに食べさせる、という贅沢極まりない絵なのです。衣服をぶどう酒で洗濯するという例えも、川の水ではなくて、極上のぶどう酒を洗濯ごときに使って流してしまう、というイメージ。「目はぶどう酒よりも色濃く、歯は乳よりも白い」というのは、そう言った極端な豊かさに支えられた健康体を描いています。この預言はユダの心を躍らせたでしょう。
3ユダへの預言を実現させた獅子
ただ、今朝はどうしても注目したいユダの子孫が一人。新約聖書開口一番にマタイがイエスさまを「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と紹介します。ダビデ以来イスラエル国家は、ずっとユダ族ダビデの家系が王位を引き継ぎました。ですから、血筋から言っても延長線上におられるイエスさまはユダ族の一員ですが、私たちにとりましてさらに大切なのはこのイエスさまが、神さまがそもそも私たちのために備えておられた王権を完成させなさったお方だ、ということです。黙示録にイエスさまが「ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利した」と紹介されています。これはイエスさまが十字架の死を越えてよみがえりなさり、今や神の右の座、神さまの権威を一手に引き継がれて、私たちにとって王となられた。これこそが「王権はユダを離れず」の預言の完成形なのです。例えばファラオの力を見れば王権が絶大であることは明白です。それに勝る力を御手に治めた主イエスが私たちを治めて下さるのです。
4結びに代えて
ユダに続けてゼブルンとイッサカルに祝福の聖言が掛けられています。ゼブルンは船団によってその力を増し、イッサカルはその勤勉を称えられますが、イッサカルについては戒めが続きます。勤労の報酬を貪り、結果自ら労働のしもべとなってしまう落とし穴への戒めです。
「王権はユダを離れず。」その王権を成就させなさったイエスさまの語り掛けに耳を傾けましょう。迎えます新しい一週も私たちが主の王国の下で守られていることを覚えてそれぞれの持ち場立場に向かおうではありませんか。
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