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「狼の中に羊を送り出す」マタイ福音書連講[063]

〜伝道礼拝〜

聖書:マタイ10章16〜23節


これまで主は御心を傾けて弟子たちに、どのような形で伝道に取り組むことが相応しいのか説き明かして来られました。弟子たちは神さまの平安をもたらす存在だ、と励まされて送り出されようとしています。

しかし「いいですか」とおことばを挟みなさって、イエスさまはここから弟子たちの警戒心を引き上げるようなことをお告げになります。「わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。」しかも、狼に勝る強い羊たちにしてあげよう、という話ではないのです。「ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」何とも心細いお勧めです。かつて旧約聖書で士師のギデオンが神さまに召され、前向きになれないでいるときに、「行け、あなたのその力で」と言われたときのように、イエスさまは弟子たちに「狼の中に羊を送り出すようだ」だから「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と告げられて、あなたのその力で行け、とでも言われるかのように送り出されたのです。


「狼の中に」とは、弟子たちが神の国の福音を告げ知らせると、同胞は彼らを捉えて犯罪人として裁判所に引き渡し、ローマの当局もまた彼らを敵視するということ。しかしイエスさまが狼の姿を描きなさったのは、その脅威に備えるため、それらから弟子たちを守るため、というよりはむしろ、そのような過酷な局面が弟子たちにとって「証しする」機会となることを諭されるためでした。つまり「狼の中に羊を送り出す」とは、狼の恐ろしさを警戒するおことばであるよりは、むしろ羊として送り出される意味合いを告げたおことばなのです。イエスさまは弟子たちに狼の中に飛び込んで玉砕しなさいと言われているのではありません。イエスさまは何よりも弟子たちが羊に例えられる存在だということをお見せになっていらっしゃいます。彼らは狼の前にあって羊なのです。それで羊飼いは羊たちを「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と導かれます。この二つが、さきほどの「証しをすること」に結びつきます。弟子たちは狼の中に遣わされて「証しをすることに」なるのです。弟子たちは言わば証しを語る羊たちなのです。この羊たちは沈黙しないのです。


まず弟子たちは慰められ、励まされます。何故ならば19節「心配しなくてもよいのです。」これは間違いなく私たちを山上の説教に引き戻してくれます(6章25〜34節)。天の御父からの際限ない供給に期待できるのです。「あなたがたの父の御霊」が与えてくださる「ことば」を鳩のごとく素直に受け取るのです。さて、弟子たちが送り出される世界の生々しさ、死と滅びに溢れた絶望が改めて描かれています。狼の中に送り出すと言われただけのことはあります。皮肉ではありますが、この聖言を拝読しながら、これは二千年前の原始的な世界に限られたことではなく、今の世界にも当てはまる死と滅びの暴力的な現実だと言えます。つまり私たちがこの世界に送り出されることもまた、狼の中に羊を送り出すような派遣であり、私たちもまた主の御目には羊なのです。このような現実の中で、弟子たちは「すべての人に憎まれ」るのです。イエスさまがそのような現実を、送り出す直前の弟子たちにお見せになられるのは、決して彼らを脅かすためでもなく、逆に彼らを奮起させ、それこそ玉砕する覚悟を引き出すためでもありません。イエスさまはいつでも慈しみをもってご自身の羊たちが幸いを得ること、そして実を結ぶことのみを御心とされています。イエスさまは彼らに最後まで耐え忍びなさいと言われます。しかも耐え忍ぶ弟子たちには救いが約束されているのです。つまり彼らの忍耐には必ず終わりが来るというお約束です。耐え忍ぶならばやがて終わるときが訪れ、そのとき彼らは救いを確かなものとするのです。さらには「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。」耐え忍びなさい、そして「逃げなさい」と押し出してくださる。イエスさまはご自身の羊たちに玉砕を命じなさるお方では断じてありません。「いのちを選びなさい」とイエスさまは弟子たちに命じられたのです。


最後に今一つイエスさまは弟子たちの務めについて慰めになるおことばを「まことに、あなたがたに言います」と前置きまでなさって告げておられます。「人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。」弟子たちが真面目であればそうであるほど、このおことばは慰めとなったに違いないのです。福音の働きは、伝道の働きは、そんなに簡単に完了するものではないということを主はご存知なのです。それであらかじめ弟子たちが失望しないように、自らを責めることのないように、そして謙って、成し得た働きで主の御前に戻ってくるようにお話になって送り出されたのです。伝道の働き、宣教の働き、日々を生きて証しをすることもまた同じなのです。そして私たちの救い主イエスさまご自身もまた、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。私たちを今朝も懇ろに慈しんでくださり、私たちが羊であることをよくご存知でいてくださいます。良き羊飼いとして私たちを送り出し、心配しなくてもよいと宥め、語ることばを授けてくださいます。耐え忍ぶ先に敵意の終焉と救いを約束してくださいます。いのちを選ぶように引き寄せてくださり、途中であっても、志しなかばでも、うまく行かなくても、強情にならず、謙って帰ってきなさい、と招かれるのです。「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と仰せになって労ってくださるのが私たちの主イエスさまです。




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