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「父なる神、収穫の主」マタイ福音書連講[061]

聖書:マタイ9章35〜38節


冒頭の聖言は決して私たちの耳に真新しいものではありません。4章23節にほとんど同じ聖言が記されていて、山上の説教も、数々のみわざもそれを裏付けるようにして綴られました。主は本当に、すべての町や村をお巡りになられたと言えるほど、ガリラヤ湖畔の北や南、西や東を巡られたことを頷くことができます。「民の中の」と記されたとき、それはイスラエルの民に限らず、主イエスさまがご自身の民だとご覧になられたすべての民が含まれ、その中に今朝耳を傾けている私たちが含まれることは決して飛躍ではありません。


イエスさまが群衆をご覧になるときに何かが起こります。5章では群衆を見て山上の説教を語られました。マルコ6章では「五千人の給食」が群衆の空腹を十分に満たします。9章36節に戻って、イエスさまは再び群衆をご覧になり、イエスさまのお心が大きく震えたのです。「深くあわれまれた」とは「はらわたが動く」と言う意味のことばだそうです。当時の人々は人の気持ちははらわたから湧くものだと考えていたようで、あるギリシア語の専門家は「はらわたがちぎれる思いに駆られた」と訳しています。人々がイエスさまの御教えに耳を傾け、恵みのみわざに与り、御国の福音に期待を寄せようとして、群れなすときに、主は張り裂けるように深くおこころを動かしなさるお方です。

イエスさまのお心が奥深くから動いたのは、群衆をご覧になってそこに羊飼いを見失った羊の群れを見出されたときです。羊飼いがいない羊の群れに起こることが少なくとも二つ。「弱り果てて、倒れていた。」「弱り果てる」とは「苦しめられる」という意味のことばです。苦しめられ痛めつけられるので弱り果てるのです。外敵から好き放題に襲われてしまう羊たちの姿です。それから彼らは「倒れてしまう」のです。彼らには羊飼い、確かな導き手がいませんから、どこに向かって進めばよいのか皆目見当がつきません。日中でも夜中でもいくあてもなく歩き回るものですから、順番に一頭一頭倒れていくのです。群衆が「弱り果てて倒れて」いるのは、病やからだの不自由、嵐や悪霊が元凶ではなく、羊飼いがいないからなのです。彼らを導く羊飼いを見失ってしまった絶望をイエスさまはご覧になられたのです。私たちが救われない存在だとすれば、それは羊飼いを見失っているからです。


自分が世話をしていた羊の群れがここまで被害を被ってしまったならば、治療や手当に掛かる労力や費用を天秤に掛けて、いっそのこと新しい群れを作り直した方がよいと考えるかもしれません。イエスさまは弱り果てて倒れている羊の群れをご覧になって、深く憐れまれた。はらわたがちぎれるような思いに駆られるのです。この羊の群れは断じて救われない存在ではありません。彼らは羊飼いのいない羊の群れのように弱り果ててはいますが、羊飼いのいない羊の群れというのは飽くまで比喩です。現実には大いに希望があります。何故ならば、そのような群れをご覧になりながら、心を震わせ、深くあわれまれる羊飼いが本当のところ、彼らの目の前におられるからです。そしてまことの羊飼いは弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と告げなさいます。羊飼いと羊のイメージから一転して、今度は収穫を待つ畑のイメージをイエスさまは描きなさいます。豊かな希望と、喜びの悲鳴が響く新しい景色です。


1大いなる収穫

第一にそれは大いなる収穫です。収穫の時期になって、「収穫は多い」と言うことのできる農夫の喜びを容易に想像することができます。イエスさまはその喜びをご自身に付き従う弟子たちと分かち合われたのです。しかしこの収穫の景色には少々違和感があります。農夫が収穫を喜ぶのは、育てた果物や野菜があらゆる意味で整って熟しているときではないでしょうか。ところでイエスさまが収穫だと言ってご覧になっておられるのは、弱り果てて倒れている群衆なのです。イエスさまはそのような人々の群れをご覧になって「収穫は多い」と御声を高らかに上げなさるのです。私たちは皆、各々そのようにして赦され、洗われ、きよめられ、主イエスさまの御手に抱かれたお互いです。


2収穫の働き

さて、イエスさまはさらに「働き手が少ない」、それが切実なので「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と弟子たちに迫っておられます。収穫のための働き手が少ないとは翻せば、収穫の作業は今まさに現在進行中だということです。弟子たちが群衆に何を見たのかは明らかにされていません。私たちはこの群衆に何をみたでしょうか。イエスさまはこの群衆をご覧になって、この上ない収穫の繁忙期をご覧になられたのです。イエスさまは私たちにも収穫は多く、働き手のために祈るほどだと告げておられるのです。イエスさまがご覧になっておられるように、私たちも群衆を見渡すように招いておられるのです。


3. 父なる神、収穫の主

最後に私たちが耳を傾けますのはイエスさまがこの大いなる収穫について、収穫の主を仰いでおられるところです。収穫の主とは、言うまでもなくこれまで私たちの祈りに耳を傾けてくださる天にいます私たちの父です。これまで読み重ねて参りました山上の説教が一気によみがえって参ります。山上の説教に耳を傾け、イエスさまのみわざを見せて頂き、その締め括りに大いなる収穫を私たちも見せて頂き、最後に見せて頂くのは外でもない収穫の主、私たちの父なる神さまです。私たちは羊飼いであられる主イエスさまを仰がせて頂きながら、改めて収穫の働きに目を向けさせて頂きましょう。

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