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「無罪とされる人たち」[創世記連講65]

聖書:創世記44章1〜13節


場面は先週に続いてヨセフの邸宅、兄弟全員が揃って食卓を囲み、疑心暗鬼になっていた兄たちも安心し皆が酔い心地になってくつろいだところまでお読みしました。ところがヨセフは管理人に指示を出し、支払われた銀貨はまた皆の袋に返し、今回はベニヤミンの袋にヨセフ専用の「銀の杯」なるものを忍ばせます。何も知らない兄弟一行は実家へ向けて明け方から旅立ちます。ところが再び彼らが支払った銀貨は袋の中に戻され、今度は大臣の銀の杯が盗まれた、と嫌疑を掛けられます。やたらと「銀」が出てきますが、これもフラグです。数年前兄弟たちがヨセフを売り渡した時に、彼らが受け取った代金が銀20枚だったことを、いちいち読者は思い出すように、創世記の記録はその点を見落とさないように書き記されています。そして、お兄さんたちも「銀」を目にするたびに、最初はそうでもなかったかもしれませんが、次第に自分たちが犯したヨセフに対する邪悪を思い起こさせられるのです。

さてここでヨセフが管理人に託した伝言が今朝のメッセージとなります(4節)。「なぜ、おまえたちは悪をもって善に報いるのか」

悪をもって善に報いる罪。兄弟たちは精一杯の弁明を試みます。「それが見つかった者は殺してください。そして私たちもまた、ご主人の奴隷になります」(9節)。この主張に対して管理人は極めて公正な審判を下します。「それが見つかった者は私の奴隷とし、ほかの者は無罪としよう」(10節)。

ここで今朝の考えどころです。私たちはともすると今回エジプトに訪れた兄弟たちを一緒くたに考えて読み過ごしているかもしれませんが、実は大事な違いがあります。末っ子のベニヤミンと他の兄弟たちは、このヨセフ物語の中で致命的に違うのです。ヨセフを売るのに加担した罪深い10人のお兄さんたちと、そのときにその場にもいなかった無罪のベニヤミン。人数のバランスはとても悪いのですが、一方ではヨセフに対して罪深く、もう一方はヨセフに対して何ら罪を持たないのです。ところが管理人の言葉に従って彼らの手荷物検査を進めれば、有罪になるのはベニヤミン一人、彼が一人で罪ある者として連れ戻され、奴隷とされます。そして残りの10人は無罪放免とされて、家に帰れることになります。

出来事の全貌を知らされている私たち読者はきっとすぐに、「これは不当だ」と訴えたくなるでしょう。そもそもベニヤミンは銀の杯を盗んではいないのですから、彼が奴隷になるなどあってはならないことです。それ以上に釈然としないのは、兄たち十人が無罪放免となることではないでしょうか。確かに彼らもまた盗みを働いた訳ではありませんが、彼らがかつてヨセフにした仕打ちを考えれば、たとえ濡れ衣であったとしても、何か痛い目に遭うべきではないか、そうでもしないと正義の帳尻が合わないのではないか、というような思いに駆られるのではないでしょうか。そしてそれは決して私たち読者の意地が悪いからではなくて、何らかのかたちで正義が示されることを望むところから来る不満ではないでしょうか。

さて、ここで興味深いのは外でもないお兄さん兄弟たちの姿です。彼らはことばにならない悲しみを露わにします。ちょうどヤコブがかつてヨセフのことをこの上もなく深く悲しんだ様子と重なります。このエピソードは、かつて弟を最初は殺害しようと企て、やがてヨセフを奴隷に売り渡し、案ずる父親に平気で細工をした長服を突きつけて絶望のどん底に突き落とした10人の兄弟たちが、「無罪」とされていく物語なのです。そしてこの物語を辿るときに、私たちがイエスさまに迫られて罪を赦されていく経験と重なるのです。

1 罪は奥深く

第一に罪の本質を垣間見ることができます。彼らはこの一件については罪はないのです。その自覚ももちろんありません。だからこそ「悪をもって善に報いるのか」と問い正されても、彼らは悪びれることなく、どうどうと自分たちの無実を訴えるのです。しかし、彼らの罪は、銀貨や銀の器の在り処で測られるものではなくて、もっと奥底に潜ませている弟ヨセフに対する悪意と敵意、そのような邪心に押し出された恐ろしい行動でした。

私たちが神の御前に悔い改めますのはそれこそ生活や人生の表面をなぞるような次元の断罪ではなく、私たちの本性に染み入る罪深さなのです。人が「あなたを無罪としよう」と告げても、人には善に対してさえ悪をもって報いる本性がある。そこに絶望をするように、と福音は光を当てるのです。そこに気づかされて、我に返って、衣を引き裂くように、嘆くようにと福音は私たちを厳しくも招きます。その招きに従うことが幸いです。それこそが救いへの道となるからです。そして福音がそこまで深く光を差し込み、メスを入れるので、私たちが悔い改めるとき、本当の意味で救われるのです。


2. 罪なきベニヤミンの断罪

もう一つ理不尽なこと、それは末っ子のベニヤミンです。彼だけはヨセフに対する仕打ちについて無実でした。私たちが自らの罪深さを悔い改めて神さまからそれこそ「無罪としよう」と言って頂いたときに、罪のない神の子羊がこの上ない屈辱と痛みを伴った罪の罰を受けられたことを私たちは知らされたのです。天の父なる神さまがこの上なく慈しまれたイエスさまが、十字架の御苦しみを味わいなさるのをご覧になってどれほどに心悼まれるのか、想像できるでしょうか。罪なき主イエスが私たちのために断罪されたのです。

私たちが人を赦すのは、私たちが無罪とされるときにどれだけの痛みと苦しみをイエスさまが味わいなさったのかを知らされているからです。私たちがどれほど罪深い存在であったのかを垣間見たからです。私たちクリスチャンが隣人を、そして敵をも愛するのは、決して私たちがおめでたい人間になるからではありません。私たちが如何に愛されるのに相応しくない存在であるにも関わらずこの上ない慈愛をもって愛されたのかをしったからに他なりません。私たちは神さまの赦しと慈しみに押し出されて前に進むお互いなのです。


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