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「権威を伴う御教え」マタイ福音書連講049

聖 書:マタイ7:28〜8:1


山上の説教の締めくくりに語られた譬え話まで耳を傾けた群衆の応答について記された段落をお読みしました。彼らの驚き、その理由、そして彼らがその後イエスさまに従った、というところまで読み進めました。節数にしますとわずか3ヵ節の段落で章を跨いでいる部分ですが、ここにはこの先福音書を学び続けるに当たって大切な手掛かりとメッセージが込められていますので、それらに注目をして今朝はイエスさまのお姿に目を留めようと導かれています。


1 完成された御教え

最初に心に留めるように導かれていますのは、28節の始まりの聖言です。

「イエスがこれらのことばを語り終えられると。」

実は元々のギリシア語ですと、このフレーズは福音書の中で5回繰り返されます(11:1、13:53、19:1、26:1)。厳密に翻訳をしようと致しますと、少々ぎこちない日本語になるのです。

「さてイエスがこれらを終えると、果たして起きたことだが。」

ギリシア語の先生によると、ギリシア語でも違和感のある言い回しなのだそうです。マタイはこの福音書の中で5回、敢えて読者や聴衆の印象に残るようなフレーズを繰り返して、私たちが注目をするように促しているのです。それで、繰り返されているおことばは「イエスが終えると」です。ここで「終える」と言われておりますのは、必ずしも何かが終焉を迎えた、という意味合いではなくて、これまで積み上げてきたことがとうとう完成を見た。もうこれ以上手を加える必要はないという意味での「終えると」なのです。

イエスさまが御語りになるとき、いつでも極みまで語られるのです。私たちに必要な一切を惜しみなく与えてくださる。お話になるときだけでなく、なさること全てにおいて然りです。受難週の出来事の一つに洗足の記事がありますが、イエスさまがそうなさったのは「彼ら[弟子たち]を最後まで(極みまで)愛された」からです。この「最後まで」もまた「終えると」と同じことばが用いられています。イエスさまが十字架の上で最後に仰せられたおことば「完了した」もまた、単にいのちが絶えることをお告げになられたのではなく、神さまがご計画なさった贖いのみわざが完成したことを宣言されたのです。

「イエスがこれらのことばを語り終えられると」人が神の国に入り、その中で祝福を受け多くの実を結びながら、幸いを得るために必要な全てが整えられて知らされ、明かされるのです。私たちに残されていることは、それを感謝して、信頼して受け入れてその通りに聞き従うことなのです。


2 仰天する御教え

さて、イエスさまが山上の説教を極みまでお話になられると、群衆がその教えに驚いた様子が描かれています。ある方の翻訳によるとここを「仰天した」と訳しており、群衆の反応をいきいきと言い表しているように感じるのです。これもまた福音書の中に何度か繰り返されることばです。群衆や弟子たち、宗教家たちやイエスさまの両親までもがイエスさまに驚かされています。イエスさまの奇跡的なみわざ、宗教家たちを論破なさる知恵、そしてこの段落では権威のある教えを語られたことに仰天しています。

人々がこうもイエスさまに仰天するのは、イエスさまが仰せになること、イエスさまがなさることが人々の期待や想像、予測することとかけ離れているからです。イエスさまは何も奇妙奇天烈なことをお話になって人々を驚嘆させようとなさったのではありません。イエスさまはいつでも神さまの御心を明かすことだけを目指しておられました。ということは、そんなイエスさまの仰せになることやみわざに仰天をする人々は、神さまのお考え、神さまの御心から遥かにかけ離れているということなのです。イザヤにはこう記されています。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

その計り知れない違いを群衆は肌身に感じて仰天したのです。私たちもまた日々の信仰生活の中で、大いにこの違いを肌身に感じながら頷くことが幸いなのです。そこから期待や希望が生まれるのです。その大いなるみわざと深い知恵に感嘆しながら、神さまの素晴らしさを讃え、証詞することが幸いなのです。


3 権威ある御教え

さて、もう一点だけ。群衆が感じ取った「権威」についてです。彼らはイエスさまの御教えに理屈や道理を越えた力を感じ取り、目の前の問題や課題を超越した真理を聞き取ったのです。権威は人々を押し出す力を持ち合わせています。権威が濫用されるとそれは容易に圧力になり、人々はその力に押しつぶされ、傷つき、失望するのです。私たちは世にあってあまりにもそのような現実を目の当たりにするので、あるいは「権威」ということばを最初から牽制するのかもしれません。

しかし、権威が神さまの御心のままに正しく働きかけますと、実に人を生かし、前に歩み出す動力になります。その兆しを私たちは今朝、この段落に見出すのです。イエスさまが権威を以て山上の説教をお語りになり、山を降りなさると、大勢の群衆がイエスさまに従ったのです。動機や思惑、期待や希望を抱きながら従っていきます。そのような彼らに主イエスさまがどのような祝福と恵みを賜りなさるのかを私たちはこれから読み解いて参ります。


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