top of page

「梁の重さ」[マタイ連講41]

聖書:マタイ7章1〜5節


「さばいてはいけません。さばかれないためです。」

一見しますと分かりやすい御教えであるように受け取ることができるかもしれません。人を厳しい物差しで批判をすれば、同じだけ厳しい物差しであなたも批判されますよ、という道徳的な教訓。あるいは、だれしも欠点があるのだから、誰も他人を非難する資格など土台ない、という倫理観。もちろん、これらは大切な真理です。でも、イエスさまがここで説き明かしておられるのは一般的な道徳教訓ではなく、いつでも神の国の福音です。そのことを今朝も覚えて、イエスさまの語り掛けに聞き従うお互いでありたいと思うのです。


 一見分かりやすい説き明かしの中で、一点だけ浮き上がるように違和感を覚えるところがあります。それは「梁」―家を建てるのに重要な木材で、屋根や床に掛かる重さの全てを一手に担い、柱に伝える大切なもの、です。いくら例えだとしてもあまりにもやり過ぎだろう、と聴衆は感じたはずです。しかしそこがこのメッセージの狙いだと思うのです。私たちが容易に納得することのできないほど、飲み込みづらい真理を伝えようとなさっています。私たちの目の上にあるものは枯葉一枚では到底伝わらないほどの重量のものであることに私たちは気づかなければならないのです。

 2節を読み返しますと「さばき」の話しから「秤」の話しに話題が変わっています。重さを測る秤です。ですから、私たちが注目すべきはイエスさまがお見せになられる梁の重さです。相当の重さです。そしてそれが何であるか、私たちはよく知っているはずです。「兄弟に向かって」と告げられていますから、イエスさまは神の子とされて兄弟姉妹になったお互いに問い掛けておられます。私たちに御声を掛けておられます。私たちクリスチャンの目の上に伸し掛かる梁、私たちがかつて背負い切れなかった重荷、わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、とお招きを頂いて下ろしたあの重荷です。


 もちろん私たちはもはやその罪を担っているわけではありません。その重量の全てが十字架の重さとなってイエスさまの肩に伸し掛かったのです。ゴルゴダに向かわれるイエスさまのお姿はまさにその重さを象徴しています。主はヨハネによるとご自身で十字架を背負われましたが、途中からそこを通り掛かったクレネ人シモンに、兵士たちが無理やり背負わせたと記録されています。イエスさまの体力ではゴルゴダまで持ち堪えることはできないと判断されたのです。木材の重量も然ることながら、人類が背負ってきた罪の重荷は計り知れないものです。その十字架がどれほど深く主イエスの肩に伸し掛かったことか。梁も所詮例えに過ぎません。

 私たちは生涯を掛けて、私たちが主イエスに背負わせた十字架の重さを少しずつ弁えながら、謙りを学び、赦すことを学び、愛することを学び、お互いを受け入れ、自らを受け入れることを学ぶのです。これらの大切な学びは、私たちがイエスさまに背負わせた私たちの罪の重さを知らずになかなか分からないのです。それだから私たちは兄弟を、隣人を容易にさばくのかもしれません。そのさばきが妥当か的外れかは今問われていません。どのような心でさばくのかさえも問われていません。相手を詰(なじ)ろうと断罪しているのか、兄弟の信仰が高められるようにと願って諌めているのか、今問われていません。邪心からならば、まさに「偽善者よ」と諌められなければならないかもしれません。しかし主は必ずしも群衆や弟子たちが偽善者だから「さばいてはいけません」と告げておられるのではないのです。私たちが梁の重さ、その圧倒的な大きさに気付くことを御心とされているのです。例えば使徒パウロが手紙の中で『私はその罪人のかしらです』と告白したとき、自分がどれだけ手に負えないワルだったのかを自慢しているのでは断じてなく、イエスさまが十字架に架かられたのは他でもない自分の罪のためだということに気づいたのです。そして今朝私たちもまた同じことを問われています。私の罪を担われたイエスさまの背中に食い込んだ十字架の重さに気づいているだろうか。


 さて、イエスさまは結びにこのように仰せられるのです。

「まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」

私たちは「さばいてはいけません」から始まって、兄弟の目からちりを取り除くところに辿り着くよう、求められているのです。そして順序があります。まずはっきり見えるように、澄んだ目で見ることです。イエスさまは「何が」はっきり見えるようになるかを仰せになりません。兄弟の目のちりがより明確に見えるようになって、より的確に、より鋭くそのちりを指摘することができるようになる、などとは仰せになっていません。ただ「はっきり見えるようになる」と言われています。そしてはっきり見えるようになることと、自分の目から梁を取り除くこととが直結しています。梁の重さをさらに深く自覚するごとにイエスさまの十字架を仰ぐのです。あの十字架にこの罪もつけた。十字架で流された血潮によってこのような汚れを洗って頂いた。その感謝と平安によって開かれる目が眺める新しい景色をはっきり見るのです。

 そしてそのときに私たちは兄弟姉妹に手を差し出すことができる存在となるのです。主にある交わりは、お互いに干渉をせず、自分と神さまさえ繋がっていれば宜しい世界ではありません。お互いにぶどうの木に結びつき、様々な実を結ぶ中で、互いに仕え合、関わり合うのです。澄んだ目で鏡に映る自らを見つめ、私たちの兄弟姉妹を、世界を見渡し、誰よりも私たちの主、天におられる父なる神を仰がせて頂きましょう。

Comments


Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
bottom of page