「明らかにされる正義」マタイ福音書連講[068]
聖 書:マタイ11章16〜19節
イエスさまは福音を告げ知らせなさる中で、何度かその時代について、またその時代に対して語りかけなさることがありました。イエスさまはご自身が生きなさった時代をよくご存知でいらしたのです。ここでイエスさまが語られる喩えはよく知られたものです。
この聖言は一般的に、笛を吹いたり歌を歌ったりしている子どもたちは、イエスさまやバプテスマのヨハネを例えている、とされますが、より細かく丁寧に読みますと、イエスさまは「この時代は何にたとえたらよいでしょう」と問い掛けなさっていますから、「広場に座って…呼びかけている子どもたち」が「この時代」を象徴していることになります。つまり、呼び掛けの中で笛を吹いたり、弔いの歌を歌ったりしている側が、この時代の人々なのです。今朝はこの短い例えを自然に読んで見て、広場に座って呼び掛ける子どもたちの方を「この時代」に当てはめてこの例えを読むと、どのようなメッセージになるのかを思い巡らせるように導かれています。
1笛吹けども踊らず
この時代が笛を吹くとはどういうことでしょうか。続く歌は弔いの歌ですから、恐らくこの笛吹きは婚礼などのおめでたい場面で笛を吹いているのです。現世の幸せや楽しさを謳歌するメロディー、未来は明るいと占い、過去の栄光を讃えるような音楽を奏でて、人々の気分を盛り上げ、確信や誇りを奮い立たせて踊らせる。しかしこの時代が「幸せだ、繁栄だ、平安だ」と奏でる音楽に身を委ねて踊って大丈夫なのでしょうか。例えば預言者エレミヤをとおして神さまは「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに『平安だ、平安だ』といっている」(エレミヤ6:14)と諌めておられます。このように楽観的な笛吹きでこの時代は溢れている。主イエスの時代もそれは変わりません。少々飛躍かもしれませんが、バプテスマのヨハネの最期を思い起こします。彼を死に追いやったのは、一人の少女の踊りでした。その褒美に母ヘロディアに言われて、ヨハネの首を盆に乗せて持ってくるように求めたのです。暗示的な読み方ですが、踊る場面を誤って取り返しのつかない結末に至った出来事です。この時代の楽隊は私たちを踊らせようと軽快な音楽を奏でるのです。しかしヨハネもそしてイエスさまも踊り場に繰り出すことはなかったのです。
2歎きたれど、胸うたざりき
この時代は人々を失望させ、悲しませる歌も歌います。「弔いの歌」とありますから、葬儀に相応しい歌です。遺族や関係者の悲しみに寄り添う歌ですから、この歌に胸をたたいて共に悲しむのが礼儀でしょう。笛吹きにしても、婚礼の場で参加者を楽しませようとしていたとすれば、そんなお祝いの場で一人壁にもたれてつまらなそうな顔をするのはマナーとしても頂けない。言うまでもなくそれらの配慮は大切なことですが、そもそもイエスさまが例えの初めに断っておられるようにこれはこどもの遊びです。本当の婚宴でもなければ、本当にだれかが亡くなったのではありません。広場で子どもたちがおままごとをしているのです。この時代はおままごとに例えられる、と言うお話です。彼らの婚礼の笛も儚く、彼らの弔いの歌も虚しい、実質が伴わないものです。子どものままごとであれば、話は無邪気な次元で済みますが、イエスさまがここで示しておられるのは「この時代」です。人々が日々を生きている現実です。そこで奏でる音楽に本質が伴うかどうかを悟らなければならないのです。人の人生はままごとではなく、儚く虚しい調べに踊らされてはならない尊いものです。
更に、ヨハネが来て断食すると、悪霊に憑かれていると非難し、イエスさまが食卓を囲むと、罪人の一人だと蔑む。「この時代」は、調べに流されない人々を非難し、蔑み、迫害するのです。イエスさまが12弟子を各地に送り出しなさるときに、予め諭してこられたことの一つです。かつてお弟子さんたちを諭されたイエスさまは今や、付き従う群衆に告げておられるのです。
3明らかにされる正義
「しかし」知恵が正しいことはその行いが証明すると断言なさいます。このたとえ話の中に正しさはどう描かれていたのでしょうか。「ほかの子どもたち」はこの時代の歌や音楽に乗せられませんでしたが、何もしなかったのではありません。彼らは知恵の行いに専心していたのです。
ヨハネはままごとのような弔いの歌に涙を浮かべたのではなく、心からの痛みと憂えの中で断食を重ねたのです。荒野でも宮殿でも罪を糾弾し、けれども真実な悔い改めと悔い改めに相応しい歩みへと招き続けました。イエスさまもまねごとの婚礼で踊るようなことはなさいませんでした。しかし、本当の幸いを力強く宣言なさいました。知恵の行いを次から次へと進め、本当の喜びと回復を地域一帯に広めて来られたのです。「知恵が正しいことはその行いが証明します」とは既に群衆が目の当たりにしてきた聖言とみわざの数々を指しています。イエスさまの後に付き従う群衆もまた、この時代のメロディーではなく、福音の知恵に身を委ね、心を預けて、救いに至るように招かれているのです。正しさを証詞する知恵の行い、その最大のものはイエスさまの十字架とよみがえりです。十字架の死を十分に弔える歌などあり得ません。よみがえりの事実を十二分に奏でることのできる笛などあり得ません。主イエスさまの十字架とよみがえりは、この時代はおろか、人の知恵をすべて束ね上げたところでとても歌い上げることのできない、超越した正義です。私たちはただただ精一杯、私たちが悟り得た素晴らしさを歌い、奏で、証詞をするのです。
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