top of page

「悪の成敗に優って善良の収穫を」マタイ連講079

教会総会準備講壇

聖 書:マタイ13章24〜43節(24〜30、34〜43)


今朝の譬え話に題名をつけるとすれば「麦と毒麦の喩え」でしょうか。36節を読むと弟子たちはこの譬え話のことを「畑の毒麦のたとえ」と呼んでいます。少々毒々しい響きがあります。

この喩え話も神さまが治めてくださる世界を描いたものです。天の御国についての譬え話です。何故譬え話で語られるのかについて、先回はイエスさまがイザヤ書をお開きになって、心を鈍くしてしまわないように戒めてくださいましたが、今回はマタイが詩篇を引用して、イエスさまが「隠されていることを語ろう」と、特に今回は弟子たちに分かるように説き明かそうとなさる御心を明らかにしています。イエスさまはご自身について来ようと覚悟を決めた人々に、天の御国の確かさについて分かるように喩えを物語るのです。

今回は畑が舞台です。これは私たちが生かされている世界を例えています。私たちの日常がすっぽりこの譬え話の中に盛り込まれています。種を蒔いているのはイエスさまご自身で、蒔かれている種、麦の種だということがすぐに分かりますが、その種は「御国の子ら」つまり弟子たちのようにイエスさまを信じ、神さまを敬って生きる人々です。敵が夜な夜なやってきて、つまり卑劣にも御国の子らの安眠、憩いに託(かこつ)けて、毒麦を蒔いて行ったのです。農夫たちはすぐに毒麦を全て抜き集めてしまおうとするのですが、主人は一旦それを留めます。すぐに抜き集めると誤って良い麦も抜き取ってしまうかもしれない、というのが主人の懸念でした。それで結局のところ麦も毒麦もしっかりと身を結ぶまで待つことにします。そして確実に毒麦だけを全て処分し、良い麦は全て倉に収めよう、ということになったというところで終わります。つまりこの喩え話は今現在の私たちの日常を描くところから始まり、この先の未来がどうなるのかを予めお見せくださる種類の喩え話なのです。この喩えには良い麦と毒麦が出てきますが、これは私たちにあなたはどちらの麦ですかと問い掛ける種類の喩え話ではありません。この喩えに耳を傾ける弟子たちは間違いなく良い種なのです。イエスさまを信じて従う人々は皆、自分を良い種だと理解して譬え話に耳を傾けるように招かれているのです。


1. 一つも欠けなく

この譬え話に耳を傾けていて、最初に群衆がおや、と思うのは農夫たちが早いところ毒麦を全部処分しましょうと提案したときに、主人がそれを留めたところでしょう。彼は毒麦をむやみに抜き取ると、誤って良い麦も一緒に抜き取ってしまうかもしれない、と案じたのです。一本、二本でも良い麦が誤って抜き取られ、毒麦と同じように処分されてしまってはならない、という思いの表れでした。天の御国はコラテラル・ダメージを許さない。これが主人の覚悟です。


2. 収穫を期待して

喩え話はもう少し先まであります。良い麦も毒麦も差し当たって残りました。しかしいつまでもそのままではありません。決着のときがやがてきます。収穫のときです。穂が出揃ってたわわに実るときを、主人も農夫たちも目指しているのです。41〜42節に掛けて毒麦に例えられている悪い者の子らが追い出される場面が描かれていますが、彼らが毒だと言われるのは、良い麦にとって、それらが生長し、実を結び、収穫を迎えるのに妨げとなり、つまずきとなるからなのです。良い麦が良い実を結び、たわわに収穫を迎えることが天の御国の目指す世界なのです。イエスさまに付き従う者たちが皆、報われて多くの実を結ぶことをお喜びになるのが私たちの神さまです。天の御国の目指すところです。

この年の私たちの歩みに、結実があることを神さまはお喜びになっておられるのです。そのような未来像を私たちにお見せになったのがこの喩え話です。


3. 太陽のように輝いて

さて、もう一歩先に踏み込んで喩え話は締め括られます。毒麦はまとめて処分されますが、たわわに実った良い麦は集めて農夫の倉に納められます。倉に納める、とは単に備蓄を意味しているのではなくて、農家にとっての財産を意味します。実った麦は一粒一粒が財産、宝として神さまのみもとに集められる、そのような未来像がこの喩えの締め括りを飾ります。

この部分をイエスさまは43節で説き明かされます。良い種は御国の子らで、彼らが良い麦、良い実をたわわに実らせるのですが、そんな彼らのことをイエスさまはさらに「正しい人たち」とお呼びになって御国にお迎えになられます。そしてその一人一人が「父の御国で太陽のように輝きます」とお約束になるのです。この輝きは次元が異なります。私たちがこの世界にあって光として輝くのは世が暗いからです。ヨハネも「光は闇の中に輝いている」と言って福音書を記し始めます。しかしイエスさまがここで太陽のように輝くと言われたのは、神々しく光に包まれている天の御国で太陽のように輝くと言われるのです。やがての日、私たちが天の御国に招き入れられるとき、それは倉庫に蔵われるような経験ではなく、様々な宝石で飾られて、主イエスさまご自身が光源となられて眩しく光に包まれた天の御国の只中で私たちは太陽のように輝く、そのような経験なのです。

この麦の喩えは、ただ単に神さまの治めなさる世界では、福音に生きる人々が一人として軽んじられることがない、というだけでなく、一人一人がたわわに実を結ぶように望まれ、そしてやがての日、宝のように迎え入れられて輝く、そのようなヴィジョンを示しているのです。私たち一人一人が、そして金沢教会が、この年も多くの実を結び、その実が残りますように祈りながら、期待しながら前進を続けましょう。




Comments


Featured Posts
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
  • Google Classic
bottom of page