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「悟る心、立ち返る歩み、大いなる実」マタイ連講078

新年聖会礼拝(含 新成人祝福の祈り)

聖 書:マタイ福音書13章1〜23節


4つの種の譬え話は、福音の世界、天の御国の現実を人々が「聞いて悟る」ということについて譬えた物語です。ですから、ある意味私たちがこの段落を読みますときに省略しがちな真ん中の部分、10〜17節までに語られていることにこの譬え話を理解する鍵があると言ってよいくらいなのです。ここでイエスさまは弟子たちの「何故譬え話で語るのか」という問いに3つのステップを踏みながらお答えになっておられます。11〜13節にかけて「天の御国の奥義」を知る、悟る、あるいは悟らないということについての現実が述べられています。それからそのことを裏付けるようにして旧約聖書イザヤ書が引用されているのが14〜15節です。そして16〜17節に掛けて、イエスさまは再び人の「幸い」についてお語りになります。目が見ていて、耳が効いていて幸いです。これらのことと「種まきの喩え」との結びつきを考えながらイエスさまの語り掛けに耳を傾けましょう。

1. 蒔かれた種が地に落ちる

「奥義」ということばは新約聖書の中に何度か登場します。奥義というと「隠されたもの」という意味合いがあります。ただ、その意味をそのままここに当てはめてしまいますと、まるで福音が人の救いについての御教えが「隠されたもの」ということになってしまいます。実はそういう意味での「奥義、隠されたもの」ではないのです。神さまは間違いなく救いの道を敷かれました。ところが人々にはその道が見えない、聞こえなくなってしまっているのです。それで福音の御教えは結果的に隠されたものになってしまっているのです。だからこそ、イエスさまは人々がその福音を見出すことができるように、「譬え」を用いて聞かせ、見せようとなさっておられるのです。

イエスさまは人々の目に見えるように、様々なみわざを行なわれ、人々の耳に聞こえるように群衆に向けて福音を語られました。けれどもこの喩えの急所は種を蒔いている人ではなくて、その種が落ちるところです。種がいろいろなところに落ちるのがこの譬え話の急所で、これが何を喩えているかといえば、それは示されたみわざ、語られた聖言を見たり、聞いたりする人の心です。群衆は確実にイエスさまのみわざを見て、イエスさまのおことばを聞いてきたのです。さらに、もう一歩踏み込んだ見方、聞き方があることも明らかにされています。そしてそちらの方が大事なのです。「知る」というお言葉、あるいは「悟る」というお言葉で言い表されています。イエスさまが語られたこと、なさって来られたことは、いわば天の御国の奥義、人の救いについての福音の譬えであって、奥義となっている真理が悟れるように、知ることができるように明かされているのだ、ということを種まきの喩えはまた説き明かしているのです。2. 落ちた種から実らない現実

さて続けて問題が発生します。せっかく地に落ちたのに、期待されたように芽が出ず、実を結ばない土地があるのです。それが耳にしても、目にしても、悟らない、知ることがない人々の心を喩えているのです。

その原因を明らかにしているのがイザヤ書の預言です。「この民の心が鈍くなり」(15節)。心を鈍らせる人々の姿を預言者イザヤは厳しく戒めたのです。福音に対して心を鈍らせる様子を分かりやすく喩えたのが、種が落ちた道端や岩地、それからいばらの中と重なります。種を蒔く農夫にしてみれば残念でならない。折角種が落ちたのに鳥に持っていかれてしまい、芽が出たのに枯れてしま、生長し始めたのに実を結ぶところまでいかないのです。イエスさまの周りに集まって様々と見聞きしてきた人々なのに、心を鈍くして悟らないなんてなんともったいない、なんと残念なのだろうかというイエスさまの御思いが浸み出る喩え話しでもあります。イザヤの預言も同じ神さまの御思いが込められた語り掛けです。

さらに、悟ることと「立ち返ること」とが結びついて語られた預言です。福音を悟る、奥義を知るとは、それは立ち上がって、向きを変えて歩き出すことなのです。耳にして、目にして喜び、感動して終わるのではなく、納得をして終わるのではなくて、実際に立ち上がって、向きを変えて歩み出すこと、行動に移すことです。イエスさまはイザヤ書の預言を引用なさりながら私たちを実り豊かな人生に招いておられるのです。

3. 大いなる結実の幸

私たちはこのたとえを耳にして、恐らく多くは「私の心は果たしてどの地面になっているだろうか」という自問ではないかと思うのです。そして良い地とは程遠いのでは、と失望するかもしれません。謙虚であることは尊いことです。けれどもイエスさまが弟子たちに仰せになっておられるおことばを今お読みしました。イエスさまは弟子たちの幸いを断言なさっています。イエスさまははなから福音の奥義を悟る弟子たちの幸いを見据えて彼らをお励ましになるのです。大いなる結実のお約束をお見せになっておられるのです。

福音に立ち返る道は隠されて分かりにくい道ではありません。心が鈍くなっている人々にも聞こえ、見えるように、そして悟れるようにあらゆるみわざとみことばによって説き明かされているのです。私たちの身の回りは天の御国の奥義を喩える神さまの知恵に満ち溢れています。今年の教会の歩みが、その一つ一つを見出し、聞き取り、悟る歩みとなりますように、喜んで受け入れるだけでなく、立ち上がって向きを変えて歩き出すお互いでありますように。



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