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「恐れ知らずの弟子たち」マタイ福音書連講[064]

聖 書:マタイ10章24〜33節


24節に進みますとイエスさまは、当時よく使われた諺のようなことをお告げになります。「弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。」

ユダヤ教のラビたちの間でこのような言い回しが言われるとき、弟子は自分の師匠を超えることは難しく、そして弟子はそれで十分だ。欲張らずに謙って師匠から学び続けなさい、と言った意味でした。しかしイエスさまがそう仰せになられたとき、まるで違う重荷を弟子たちのために担っておられたことを私たちが読み取らなければなりません。

「家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、

 ましてこの家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。」

イエスさまはご自身が師匠として如何に優れているのかを弟子たちに見せつけておられるのではなく、むしろご自身が反対者たちからどのような仕打ちを受けておられるのかを明かしておられるのです。このときはまだ「ベルゼブル」の名前は出てきませんが、12章まで読み進めますと、宗教家たちはまさにこの名前を取り上げて、イエスさまに詰め寄ります。「狼の中に羊を送り出す」現実と弟子たち向き合うことについて、さらに踏み入ってお話を続けておられるのです。「ですから、彼らを恐れてはいけません。」この段落の中で、三回「恐れてはいけません」とイエスさまが繰り返して仰せになっておられますから、その一つ一つを追いながら、私たちもまたイエスさまから御励ましを頂戴したいと祈っております。


1拒絶を恐れない弟子たち

26節で早速「ですから」と前置きがあって「彼らを恐れてはいけません」と弟子たちは励まされます。この「彼ら」が誰のことなのか、よく見えません。イエスさまご自身は付き従う群衆のどの辺りからこの「彼ら」が現れるのか、そのときになって彼らの心をご覧になり、彼らのことばに耳を傾けなさって、福音を語られてきたのです。弟子たちも同じ状況に向き合うことになります。「彼ら」とは言われても、誰の口から、どの辺りから、どういう切り口で反対や迫害が飛んでくるのか分からない現実があるのです。そのために弟子たちは託された務めを果たすことが叶わないのではないだろうか。誠実なしもべとして収穫をすることができないのではないだろうか。反対や迫害にめげて、尻尾を巻いて逃げてしまうのではないだろうか。弟子たちの恐れです。「彼らを恐れてはいけない。」イエスさまは続けて彼らに力強いお約束をしてくださいます。

弟子たちが口を開くまで「覆われている」福音、彼らが心のうちに温めている間、隠されている恵みと真理の数々、「天の御国が近づいた」というお知らせは、彼らが送り出されるならば、現されないままで終わってしまうものは何一つない。彼らが口を開くならば知られずに終わる真理は何一つない。わたしが暗闇で語ることを明るみで言い放ちなさい。わたしが耳元で囁いたことを、屋根の上に上って言い広めなさい。弟子たちのことばは、単なる真理の反復ではありません。大いに拡張されて、その膨らみが暗闇から明るみに出る眩しさに匹敵し、同じ部屋にいても聞き取りづらい声が、町中に響くメッセージとなるのです。だから彼らを恐れてはいけないのです。


2. 恐れるべき方を知っている弟子たち

それから続けてイエスさまは28節で再び「恐れてはいけません」と弟子たちを励ましておられます。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たち」を恐れてはいけない、と仰せになります。イエスさまは決してからだの生命を軽んじておられるのではありません。そのことを踏まえた上で、人の生き死にをそのたましいの次元で定める権を持っておられる方がおられるとするならば、その方こそを恐れなさいとイエスさまは戒めなさるのです。私たちがその方を恐れることを学び、体験する一つの大切な場が外でもない私たちの礼拝です。その恐れを健全に抱くときに、自然と私たちはこのお方以外の一切を恐れることがなくなるのです。ですから「たましいを殺せない者」を恐れないのです。弟子たちが恐れ知らずであるとすれば、それは本当に恐れるべき方を健全に恐れているからなのです。


3. 恐れそのものを退ける弟子たち

さてイエスさまはもう一度31節で「ですから恐れてはいけません」と戒めなさいます。今度は恐れそのものを退けるように招いておられます。なぜそうすることができるかといえば、それは私たちが恐れなければならない方の御心を知らされたからです。このお方は私たちのいのちもたましいも生かされることの他に関心をお示しにならない、そのようなお方なので、私たちはあらゆることについて恐れを退けることが許されるのです。髪の毛も全て数えられている、とは人が自分のことなのに手に負えない髪の毛の数にまで神さまは御心傾けておられる、ということ。弟子たちは皆、価値ある存在として慈しまれているのです。恐れなければならない方は、何が何でも私たちのいのちを守り、祝し、生かそうと望んでおられる方なのです。この事実をもって弟子たちは恐れを退けるのです。私たちもまた新しい一週、恐れから解放されて歩みを続けようではありませんか。

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