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「怒りの顛末」マタイ連講022

聖 書:マタイ5章21〜26節


今朝からしばらく山上の説教はモーセの十戒を中心に主イエスが、律法のおことばの中に込められている神さまの御心について説き明かされます。最初に取り上げられる律法は「殺してはならない」です。これはモーセの十戒で言えば、第6の戒めです。ただ、イエスさまはそのあとに「人を殺す者はさばきを受けなければならない」ということを一緒に仰せられて、この戒めが刑罰に値する種類の殺人に限られているということを示されました。

ただ、「殺す」とは何を殺すとかどのように殺すということの詳しい説明はなく、「人を殺してはならない」という戒めの中に神さまが込めなさった本質的な罪は何かを説き明かそうとされて、3つほど手掛かりをお示しになられたのです。第一に兄弟に対して怒る者、第二に兄弟に「ばか者」という者、第三に同じように「愚か者」という者、彼らは殺人と同じようなさばきを受ける、と言われたのです。しかも「最高法院」、あるいは火の燃えるゲヘナに送られるのです。最後通牒で極めて厳しいおことばです。


殺人と「ばか者」と言うことが同じさばきに値するとはいったいどういう了見なのだろうか、そのことを説いたのが後半23節からの2つの例えです。ひとつは礼拝で献げ物をする礼拝者の例え、もう一つが裁判所に連れていかれる人の例えです。礼拝者は兄弟に恨まれていることを思い出し、連行されている人はまもなく訴えらようとしています。どちらに対してもイエスさまは最優先で和解をするように迫られます。そのような緊張の中でイエスさまは「殺してはならない」という戒めの中に込められている、神さまの御心は何かを明かされました。もちろん人の生命を奪うことは極悪な犯罪ですが、さらに踏み込まれて、いのちを奪うことが何を意味しているのかに光を当てなさいました。それは絶望的な断絶です。人と人との結びつきを引き裂く究極の仕業です。「人が一人でいるのはよくない」と言われた神さまが人に与えなさったのはエバでした。「隣人」です。殺人はその隣人に手を掛けて亡き者とする罪。

しかし文字通りにその生命を絶つことをしなくても、絶望的な断絶をもたらすしわざはいくらでも私たちの日常の中にある、と警鐘を鳴らしておられるのです。その筆頭に挙げられたのが「怒り」です。思えば、人類最初の殺人による断絶は文字通り兄弟の間で起きた悲劇でした。しかもその原因は兄の激しい怒りでした。弟を殺害し地に埋めた兄に神さまは「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われますが、カインは「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」と返答します。本気で最も身近な自分の兄弟を心から鬱陶しく思い、断絶を望んだことば。心からそう言えたとすれば、まさに殺人と変わらない末恐ろしい罪でしょう。

さて問題は私たちが隣人を見回したときに、このたとえ話のように、自分を恨んでいる人のこと、自分を訴えようとする人がいることを思い出すときです。私のせいなのか、不条理な逆恨みなのか、気になるのですが、イエスさまはこのお話の中ではそれにはお応えになりません。ただ、解決の道をお示しになります。その道は一つ、和解、仲直りです。そして最優先で取り掛かることを主は熱心に語られます。それで2回繰り返すようにお話をなさったのです。「行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」「一緒に行く道中で早く和解しなさい」。

解決方法は一つですが、イエスさまはふた通りの結末を描いておられます。ある意味この二つのどちらかしかないのです。一つはささげ物を祭壇の前に置いて、兄弟と仲直りした人です。彼は戻って、そのささげ物を献げることができました。いつも通りの信仰の歩みに戻ったのです。しかし今一人の方は和解が成り立たなかった例です。彼はあれよあれよと言う間に兄弟から裁判官に引き渡され、裁判から下役に引き渡され、下役はそのまま牢に投げ込まれてしまいます。まるで転がり落ちるような様子が伺えます。そして投げ込まれた牢では徹底して負い目を支払わされます。主が群衆に迫っておられることは改めて一つ。まず仲直りすること、早く和解をすること。いかなる手段を講じてでも兄弟姉妹の間の断絶を避けること。一方では私たちから刃物を振り下ろしてはなりません。兄弟姉妹に対して怒りをもって断絶を目論むことを神さまは悲しまれる。私たちのことばと行いを吟味するように私たちは招かれています。もう一方では、私たちの方から差し伸べる手はないだろうか、差し出す腕はないだろうか。それは神殿での献げ物にまさって尊いわざ、判決を前にしてギリギリまで交わす駆け引きのような切実さをもって取り組む生きた信仰の証です。


私たちが昨今置かれていますコロナ禍の緊張や不安のため、私たちを取り巻く世界は著しく乱暴になり、攻撃的になり、絶えず何かを責め、批判し、まさに憤りが立ち込めているような空気の中にいるように感じます。その勢いに呑まれて私たちまでもが怒る者と化してしまう危険に晒されています。今朝イエスさまはこの上なく強いおことばで私たちを守ってくださっています。「殺してはならない」。そのおことばに私たちもはたと立ち止まろうではありませんか。特にイエスさまが気に掛けておられる兄弟姉妹の間柄で、私たちがこの世にあって本当の交わりを証しすることが許されたならば、これ以上ない恵みであり、それはこの世に向けて差し出される祝福ではないでしょうか。迎えます新しい一週も、和解の福音を携えて前進を致しましょう。一人でも多くの方々が怒りを捨て敵意を手放し、私たちの交わりの中に加わりますように。

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