「心痛めず、己を責めず」[創世記連講67]
聖書:創世記45:1〜15(28)
この章の中には3つの場面が順繰りに映し出されます。最初の場面は1〜15節、ここは大臣ヨセフの邸宅で、ヨセフがとうとう自らの正体を明かして兄弟再会が叶うところです。第2の場面はファラオの邸宅、ファラオと彼の家臣たちがヨセフと兄弟たちの再会を祝います(16〜24節)。そして25〜28節は兄弟たちが父ヤコブに朗報を伝える場面です。今朝は章の全体を拝読することは割愛させて頂きましたが、メッセージは全体を踏まえたものになっております今朝心に留まります聖言は5節です。
ここにこれまでのヨセフ物語の真理が凝縮されています。第一に「私を売ったこと」が思い起こされます。この事実がすべての始まりです。第二に「神が遣わされた」という世界の見方、「神さまのみわざ」という物事の捉え方。そして第三に「救い」です。ヨセフは兄弟たちと本当の意味で再会を果たして開口一番にここまでの出来事の意味を解き明かしたのです。丁度ファラオの献酌官長や料理官長の夢を解き明かして神さまのご計画を示したように、またファラオの夢を解き明かして、神さまがこれからなそうとしておられることを解き明かしたように、今彼はこれまでの出来事を振り返り、神さまの御心を解き明かそうとしているのです。
実際ヨセフはこの短い段落の中で3回、解き明かしのことばを言い換えます。今朝はそれらを追いながら私たちに与えられている福音について思いを傾けるときを持ちたいと思います。3回の繰り返しはそのままこれまでの出来事に込められている3つの側面を表しています。第一の側面は人のなせるわざ、という側面です。私たちの日常はこれで成り立っています。ここでは特に兄たちがヨセフをエジプトに売った、という仕業が思い起こされています。私たちはいつでも「人のなせるわざ」と向き合わなければなりません。しかし第二の側面は「神さまのなさるみわざ」です。同じ出来事についてヨセフは神さまのなさるみわざを見上げていました(8節)。そして第三の側面、これは出来事を具体的に捉えた見方です。「神はいのちを救うようにしてくださった」(7節)。
1人のなせるわざ
第一にヨセフは「人のなせるわざ」と向き合います。ある意味私たちの日常はこれで成り立っています。もちろん神さまにはすべてのことが可能ですから、頭ごなしに全否定をするつもりは全くありませんが、神さまは秩序を重んじなさる方だとも聖書は記しておられます。私たちが良いと思ってすること、正しいと確信して言うこと、もちろん悪意や邪心を抱いて言ってしまったりやってしまったこと。私たちはその一つ一つと向き合わなければなりません。「わたしをここに売った」というヨセフのことばは、そう言う意味では兄たちにとりまして、あまり向き合いたくない自らの手のわざでした。しかしヨセフはすぐにこのように告げます。「私をここに売ったことで、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。」このことばを言うことができるのはヨセフだけです。本当に痛みを取り除き、責めから解放することができるのは実際に売られたヨセフだけなのです。赦しとはそういうものです。
聖書は人が神さまの御前でやがて自らのなせるわざについて申し開きをするときが来ると諭しています(マタイ12:36、ロマ14:12、ヘブル4:13他)。そのときに私たちが胸を張って、神さまこのことはイエスさまの十字架に免じて赦して頂きました、とお答えすることができる幸いを得るのです。もうそのことで心を痛めなくてもよい、自分を責めなくてもよい、とイエスさまご自身が十字架に免じて御声を掛けてくださるのです。
2神のなさるみわざ
さてヨセフはさらにこう加えます。「神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました」「神はあなたがたより先に私を遣わし。」実際3回ヨセフは言い換えながら繰り返しますが2回目にも「神が私をあなたがたより先に御遣わしになった」と言い表し、そして3回目にはこのことを強調するようにして、「ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです」と断言しています。私たちの日常は人のなせるわざで成り立っていますが、その実そこに「神さまのなさるみわざ」があることをヨセフは見極めていたのです。そのように彼は自らの身に起こる出来事について理解する心を養っていたのです。神さまのなせるみわざが静かに、しかし確実に押し進められているのです。そのようにして神さまの祝福は染み渡るのです。
3人のいのちを救うみわざ
そして3つ目の側面、それはその神さまのみわざは漠然とした祝福や恵み、で留まるものではなく、具体的にそして一貫してご自身の民の「いのちが救われるため」のみわざであったという点です。一連の出来事の差し当たってのゴールはヨセフの実家であるヤコブの一族が文字通り飢饉の中で飢えて死に絶えてしまうようなことがないように、生命を救うところにあります。
しかしこの物語はエジプトの豊かさを讃える物語ではありません。ある意味そのエジプトで賢く治めたヨセフを讃える物語でもありません。この物語はヨセフに絶えず伴われ、エジプトの力と富さえもご自身の御手の中に治めなさって、ヤコブの一族、ご自身の民を助けられた救いのみわざを讃える物語なのです。一族の生命を顧みて救われる神さまは、人々の心と霊魂を慈しんで、その痛みと咎めから解放して救い出しなさいます。その救いのみわざはイエスさまの十字架とよみがえりによって完成して、今でも私たちを救いに導きます。
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