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「心のきよい聖徒たち」(召天者記念礼拝)マタイ連講[016]

マタイ5章1〜12節


イエスさまがここで群衆に向けて「心のきよい者は幸いです」と仰せられたときの人々の反応は想像するしかありませんが、少なからずの驚きが湧いたことは間違いありません。「きよい」生き方について、心に光を当てなさったところが当時の人々にとっては新鮮なメッセージだったはずなのです。当時はユダヤ教でも当然ながら聖なる神さまにお仕えする民はきよくあることを志すように教えられていました。ですから宗教指導者たちは民が「きよい生活」を生きるように指導をしていました。エルサレムの神殿を中心とした一連の伝統的な営み、さらに彼らの日常の中でも古くから伝わる習わしを忠実に守ることが求められました。素晴らしい志だと思うのです。けれども人の熱意は往々にして暴走をするものです。

主イエスの時代ユダヤ民族はローマの支配下に甘んじ、独自の王政は廃止され、司法や行政はローマ帝国に渡り、納税も強いられます。辛うじてエルサレム神殿を中心とした宗教行事などは許されてはいましたが、それもいつだってローマ当局がその気になれば踏み潰すことができる。そのような現状ですから、ユダヤ民族は熱心に神の救いを求めるようになります。そしてその求めに対して宗教指導者たちは、神は必ずメシアを送り込んで再び国家を再興するので、そのときに神に喜ばれるように、今から「きよい生活」をしてお迎えしよう、と民を煽り立てたのです。その熱意に巻き込まれるように人々は行事や教えなどに追い立てられるようになり、いつしか心が伴わなくなってしまった。心がきよい者は幸い、とイエスさまが仰せられたのにはそのような背景がありました。主の御思いには何が込められていたのでしょうか。

いくつかの詩篇が手掛かりとなります。例えば詩篇51篇。ダビデが取り返しのつかない罪を心から悔いて神に赦しを乞う時、彼は赦しを求めただけではなく、「私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください」と祈り求めます。ダビデは、自分が犯した罪は自分の心と結びついていることを悟ったのです。神とともに歩むのに、心が伴うことが肝要であること、そしてその心は神に造って頂くものであることを彼は知らされたのです。

同じダビデが献げたもう一つの詩篇24篇も有益な手掛かりです。詩聖は「だれが主の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。」と問い掛けられます。旧約聖書の時代、聖い神の御前に汚れたままで立つことは断じて赦されず、神の御顔を直接仰ぎ見ると死ぬとさえ恐れていたのです。ダビデの問い掛けに対して、常識のあるユダヤ人であれば「そのような人はどこにもいない」と答えるのが正解です。しかしダビデはそうは歌わないのです。

「手がきよく心の澄んだ人。」

手がきよい、とはその人の言動がきよく純粋であることを言い表しています。

「そのたましいを虚しいものには向け」ず、絶えず価値のある宝に心が向いている人のことです。その澄んだ心はそのまま彼の手とわざ結びついています。彼の言動に直結しているのです。そのような礼拝者たちが、「あなたの御顔を慕い求める人々である」と歌います。良識のあるユダヤ人は自らを弁えて神の御前に立つなど滅相もないと恐れをなすのですが、手がきよく心が澄んだ人々は、その恐れを越えて、聖い神の御顔を慕い求める、というのです。

ダビデは、手がきよく心の澄んだ人は、怯えることなく御顔を慕い求める、と歌いましたが、イエスさまははっきりと断言されます。心のきよい者は「神を見る」と。


1.やがての日、顔と顔を合わせて神を見る。

新約時代の信仰者たちはもはやかつてのユダヤ人たちのように「神を見る」ことと恐怖とを結びつけることはしませんでした。むしろその逆で、「神を見る」とはやがて地上生涯を終えて天国に帰ったときに、イエスさまに顔と顔とを合わせてお会いするときへの期待と希望を意味したのです。


2.主イエスにあって神を見る。

使徒ヨハネは今の世にあって「神さまを見る」ことについて福音書の冒頭にこのように書き記しています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

つまりイエスさまを仰げば、神さまが見えるのです。


3.主にある兄弟姉妹たちをとおして神を見る

使徒ヨハネはまた、手紙の中でこのようにも書き記しています。

「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(4:12)

主にある聖徒たちお互いの交わりのなかで神のご臨在を得ることが許される、言い換えれば神を見るのです。


付. 被造物を通して神を見る

ジョン・ウェスレーがこの節から語った説教を紹介します。

「神はすべての物の中におられるので、私たちは、すべての被造物という鏡を通して、創造主を見るべきです。どんなものでも、神から分離したもののように使ったり見たりしてはなりません…すべての物を、神はその掌の中に納められているものとして、真に雄大な思いをもって観察してみなさい。」

あらゆることを通して神はご自身をお見せになられる、と私たちは注意して見渡すようにとの勧告です。心のきよい者が、その信仰によって澄んだ目で世界を見渡し、世界に触れるときに、神さまがご自身を示しておられるのを見出すことが許されるのです。この一週もお互い神を見る幸いを得ましょう。



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