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「心から溢れる恵みのことば」マタイ福音書連講[075]

聖 書:マタイ12章30〜37節


神の国が到来している今、イエスさまと共にいること、イエスさまのもとに人々を招くことが肝要な時代に入ったことを、「私に味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしている」という熱意あるおことばでイエスさまは告げなさいました(30節)。もともとイエスさまのお言葉には「味方」ですとか「敵対」ということばは含まれていません。わたしのそばにいるように、そしてそういう人が増えるようにわたしと共に集める人となるように、という強い御思いが、神の国の到来に併せて告げられたのです。

しかし、イエスさまはここでお話を終えようとはなさいません。それどころか、実はこの先に大切な真理が、福音の鍵があることをお告げになるのです。それで31節の冒頭の「ですから」に繋がるのです。イエスさまがここで人々の注目を求めておられるのは、人の心の問題です。心の中にある思いの問題、信仰者であるならば信仰の問題を問うておられるのです。


1良い実を結ぶ良い木

イエスさまは聖霊に対する冒瀆は「赦されません」とこの上なく厳かに仰せになります。ここを読むと「赦されません」に注目が言ってしまうようですが、本来の鍵は「人のことば」です。冒瀆する言葉、聖霊に逆らうことを言う者。「赦されません」とは人のことばの重さを表しています。人のことばは聞き流してはならない。私たちはよく「心にもないことを言ってしまいました」と弁明をしますが、こころにもないことを言えるはずもありません。イエスさまがここで仰せになられる真理に、私たちは改めて振り返る必要があります。「心にもないこと」とは、心にしまっておくべきこと、心から出したくないと思っていたことを言ってしまった、ということなのです。心にしまっておくのはそれこそ他者への愛や尊う思いがあってのことかもしれません。それでもイエスさまは私たちの心をご覧になり、そにある思いや思想にまで心を配りなさるのです。その確かな手掛かりが人の口から湧き出ることばです。ちょうど果樹園の樹木と、それらの木が実らせる果実の関係と重ねることができる、とイエスさまは喩えなさいます。以前もイエスさまは山上の説教の中で果樹と果物の喩え話をなさいました。「荊(いばら)からぶどうが、あざみからいちじくが取れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い身を結びます。」そのときには人々のことばではなく、彼らの行動がその人の本質を明らかにする、と諭しておられました。ここではさらに踏み込みなさって、人の内側をご覧になり、木の良し悪しを人の心の良し悪しと重ねなさり、果実と人のことばとを重ねて喩えなさったのです。


2心に満ちているもの

またイエスさまはパリサイ派の人々を指して、彼らを「まむしの子孫たち」とお呼びになりました。まむしが持つ毒性をイメージなさってこのようにお呼びになられたのです。ちょうど悪い果実は、悪い木が実らせるように、毒のあることばを吐き出すのはまむしの毒のような心からだ、と諌めなさったのです。しかも、その毒が「満ちている」と言わんばかりに諌めなさったところが印象に残ります。まむしの中には栄養もあり、薬になるところもあり、そして毒もあって、今回は毒が溢れてきてしまった、というのではなくて、どこを切っても毒しかない、そういうイメージを描いておられる辺り、極めて厳しいおことばです。


3宝の倉に収めるもの

さらにもう一つ、人が倉から物を取り出す絵を描きなさいます。この「倉」というおことばですが、「宝」と訳すことができることばだそうです。人が大切だ、価値が高いと認める物を表したり、そのようなものを集めてしまっておく場所を指します。貴重なもの、高価な物をしまっておく入れ物と、人が大切にしている考え、重んじている事柄を、そっと納めている心とを重ねて、イエスさまはお話になられているのです。心にしまい込んでおくものを、人は価値高く値積もっているのです。毒々しいことばを吐き出すような人々は、そのような思いを大切にしている、そのような心をイエスさまは案じておられるのです。


4無益なことば

そのようなことばをイエスさまは36節で「無益なことば」と言い表しておられます。「無益なことば」。この「無益」は「無邪気」とは異なります。文字通り「益を望まない心」です。人の祝福を望まず、自らの幸せを望まず、神さまの栄光を望まない、む・え・きなのです。イエスさまはこの「無益なことば」について「さばきの日に申し開きをしなければなりません」と言われました。最後の審判のときに備えて、人は心に満ちていることを見つめるように促しておられます。最後に「義とされる」私たちを思い描くように招かれます。「あなたがたは」と宗教家たちに呼びかける視線を変えなさるようにして、「あなたはどうですか」と最後に群衆に、弟子たちに、そして聖言を通して私たちに問い掛けてくださって、「義とされる」心を与えられるように、良い木だと例えられる心を保つように、宝の倉には、永遠の価値のある宝が大切にしまわれているように、今朝私たちもお招きを頂いています。イエスさまのお招きに信仰を持って応答しましょう。私たちの心の思いと口の言葉とが、神への香りのよい祈りとなりますように、人々を喜ばせる良い果実となりますように、私たち自身を保つ恵みの手段となりますように。

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