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「御父に求める世界」マタイ連講[043]

聖 書:マタイ7:7〜11


ある意味これほどオープンなメッセージはなかなかありません。求めなさい!と招かれます。誰が招かれているのかが第一限定されていません。誰に求めるのかについても一言もありません。そして、そもそも何を求めるのか、ということも特定されていません。しかも次の節には「だれでも」と言われています。敢えて日本語では伝わりづらいところがあるとすれば、イエスさまは「求め続けなさい、探し続けなさい、叩き続けなさい」と招いておられる、ということ。実に分かりやすいメッセージです。それとも本当に分かりやすい御教えなのでしょうか。そうでもないようです。


「求めなさい」とは実のところ私たちが最も敬遠する生き方です。言われてもしたがらないのです。励まされてもできないと乗っけから諦めてしまっているのです。私たちは「求めない」のです。そしてそれは何よりも不幸なのです。イエスさまはそもそも山上の説教を、人の幸せのために、幸いな人となることを御心として語り始めなさったのです。その幸いをみすみす人は逃しているのです。ですからイエスさまは畳み掛けるように私たちを招いておられるのです。

「求めなさい」とは「尋ねなさい、質問しなさい、お願いしなさい」という意味のことばです。山上の説教で言えば「祈りなさい」と近いイメージです。私たちのその日の食べ物のこと、日々の赦し、誘惑や試練、災いからの御守りのことをお尋ねしなさい。そのように教えられたばかりですが、「求めなさい」とはそういう私たちのお願いする心を引き出すお招きです。

「探しなさい」とは実のところ「求めなさい」という日本語のイメージに近いことばです。マタイ6章33節で印象強く使われていることばと同じなのです。「まず神の国と神の義を求めなさい。」あの「求めなさい」とこの節の「探しなさい」が実は同じことばなのです。追求しなさい、追求心を絶えず育むように、働かせるようにとイエスさまは迫っておられるのです。

「叩きなさい」というイメージは扉があることを想像されるお招きです。これまで耳にして参りました山上の説教の中には扉を叩くお話は出て来ていませんが、実は数節後を読みますと、狭い門から入りなさいというお話をイエスさまはなさいます。もしかするとそこに結びつけるイメージなのかもしれません。また、ルカの福音書には夜中に扉を頻りに叩いて、パンを3つ貸してくれと頼む友人の譬え話が記されていますが、あの切羽詰まったイメージが「叩き続けなさい」に込められています。


加えて二つのことが山上の説教らしいところです。第一に必ず応えがあるという保証です。ここまで断言することがおできになるのは神さまだけです。求めることに意義がある。探し続けることが大切だ、という価値観も尊い。そしてともすると、安易に「答えはある」などと断言することは、無責任かもしれない。それでもイエスさまは求めるならば応えがある、と断言されたのです。

それからもう一つ特色は「だれでも」、限定なしのお招きです。そもそもイエスさまの周りに集まった聴衆も様々な立ち位置や考えの人々が集まっていました。そしてイエスさまがそう言った様子をご存知なかったはずはないのです。その上で「だれでも」と下線を敷くように招いておられる、これもまた山上の説教らしい特色です。そして今朝、私たちもまたイエスさまにお招き頂いていますこと、改めて覚えたいと思うのです。


さて、イエスさまはこの上なくオープンなお招きをなさり、その意味合いを一つの譬え話をなさって深めておられます(9〜11節)。だれでも容易に自分に当てはめることのできる親と子の小話です。自分の子がパンを求めるのに石を与えるだろうか。魚を求めているのに蛇を与えるだろうか。時代や食文化が異なる私たちも、イエスさまがお見せになることはよく汲み取れる譬えです。

この譬えは、与える側を描いた譬え話なのです。もう少し踏み込んで言い換えると、私たちがだれに求めるのかを特定する譬えなのです。子どもがパンや魚を求めるときに、親であればどんな親であっても(悪い者であっても!)と言い表しなさったのです。一生懸命に求め続けるその努力や、諦めない根気が報われるという話ではないのです。確実に求めや探求に答える方がおられるから、扉は開かれ、探し求めたものは見出され、与えられるのです。

「それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」


この一連の語り掛けはこの真理を目指したものです。思い返しますとこれまでも繰り返し私たちは同じようなお約束を頂いて参りました。山上の説教は冒頭から、人に幸せを約束する宣言から始まっていました。天の御国はあなたがたのもの、地を受け継ぐ保証、神を見、神の子と呼ばれ、悲しみには慰めが約束され、飢え乾く人々は満ち足り、憐れみを受ける。だれであれ、貧しい者であれ、悲しむ者であれ、飢え乾く者であれ、柔和な者であれ、あわれみ深い者であれ、心のきよい者であれ、迫害される者であれ、だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれる。何故ならば、私たちの天の父は、ご自分に求める者たちに、良いものを必ず与えなさるから。

私たちは何をすればよろしいのでしょうか。求め続けるのです。問い続けるのです。追い求め続け、叩き続けるのです。応えて頂けるかどうか心配だからではなく、ましてや続けないとなかなか分かってもらえないからではなく、私たちが求め続けるかぎり、応えと賜物は与えられ続けるからです。

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