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「待ち望むべき方から離れず」マタイ連講[066]

聖書:マタイ福音書11章1〜6節


弟子たちを送り出されたイエスさまは、ご自身も宣べ伝えるために立ち上がられました。そこへバプテスマのヨハネの弟子たちがイエスさまのみもとに訪れます。ヨハネ自身は囚われの身であり(4章)、身動きがとれないからです。彼はイエスさまとその福音に自らの人生を賭け(後の章を読むと)、彼はローマ当局の宮殿の中で行われていた不道徳を断罪して捉えられのです。

しかしそのような中で彼はイエスさまについて疑問を抱いたのです。彼が待ち望み、期待をしていたメシアと、実際にお出でになられたイエスさまのお姿とが大きくかけ離れていたのです。ヨハネは実を結ばない木を切り倒し、穀物の籾殻の部分は容赦なく燃やされる、究極の正義をお示しになる審判者を待ち望んでいたのです。ところがイエスさまは罪人たちを断罪するどころか、彼らに近づかれ、福音を語り、家に訪れ、彼らの病や痛み、苦痛を取り除かれるのです。気付けば取税人を弟子になさる。悪は裁かれていない。他方、真理と正義のために多くを犠牲にして神さまに仕えてきた自分は報われるどころか、今罪深いローマの支配者たちによって投獄されてしまい、直にイエスさまに会うことさえできなくなっているのです。正義は報われていない。それで彼は疑問を抱くのです。このお方は果たして本当に待ち望むべきメシアなのか。

 ヨハネは決して神さまに対して、あるいはイエスさまに対して悪意や邪神を抱いて疑念を抱いているのではありません。むしろ彼は神さまのお約束、メシア/救い主のお約束について全幅の信頼と期待を抱いています。今投獄されていても依然と彼は希望を捨ててなどいません。ヨハネの抱えた疑問は、そこではなく、彼が期待し、理解していたメシアのイメージ、さらに言えばヨハネ個人のひとりよがりというよりは、旧約聖書の聖言から読み取れるメッセージ、そして当時の宗教指導者たちが、信仰の仲間たちが共有していたメシアのイメージとイエスさまとが、大事なところで異なる、少なくともヨハネが期待していたところで異なるときに沸いて来た疑問です。

イエスさまは遣わされた弟子たちを通してヨハネに応えなさいます。ヨハネのためにご自分のなさったことを整理してお告げになりました。そして締め括りに「貧しい者たちに福音が伝えられている」と仰せになります。病やからだの疾患、痛みや苦しみ、そして死も、人の貧しさを表す現実です。

 確かにイエスさまご自身もやがてのとき、人の子が審判者として麦と毒麦を、羊と山羊を、選り分ける審判のときが来ることを断言しておられます。ですから、確かに斧は木の下に置かれているのです。ヨハネの見たメシアの姿は間違いないのです。しかし神さまが遣わされたメシアはヨハネが抱いた期待や希望をはるかに越えたお方なのです。そしてイエスさまがヨハネに求めなさったことは、一つだけ。つまずかないこと。

つまずきについて私たちは山上の説教でしばらく前にイエスさまから学びました。聖書の中でイエスさまが忌み嫌われるつまずきとは、神さまと神の国から人々を敢えて遠ざけるものごとです。宗教家たちがイエスさまについて悪口雑言を言うとき、イエスさまは決してプライドが傷つけられたから彼らを戒められたのではなく、救いと祝福を求めて福音に近づこうとする人々を、悪口雑言を吐いて主ご自身から遠ざけようとしたので厳しく諫めなさり、それを「つまずき」だと言われたのです。期待したメシア像と目の前のメシアの現実とがかけ離れていても、わたしから離れてしまわないように、イエスさまの語り掛けです。これまで待ち望んで来た信仰を、そのまま続けてイエスさまに向けるように、今まで抱いてきた期待と希望をそのまま今目の前におられるイエスさまに抱き続けるように、イエスさまはお招きになったのです。イエスさまは今朝も私たちに語り掛けておられます。わたしにつまずかない者は幸いです。わたしから離れないでいなさい。

 ここで今朝、最後のこだわりです。「幸いです」という語り掛けは、山上の説教の始まりを思い起こさせます。心の貧しい者は幸いです。先ほども「貧しい者」のところで思い起こしました。悲しむ者、柔和な者は幸いです。その幸いのリストに新たに「わたしにつまずかない者は幸いです」そのように読み取ることもできます。しかし、山上の説教と大きく違う点が一つあるのです。山上の説教では(お話しましたように)群衆に呼び掛けられたメッセージでした。群衆の中のだれであれ、何人であれ、群衆皆がこぞってであればなおのこと、耳を傾ける人々全てに投げ掛けられた招待状でした。ですから一貫してイエスさまは「幸いな人たち」を描いておられる。けれどもヨハネに対しては、「幸い」は単数なのです。だれでも、と呼び掛けなさりながらも、イエスさまはヨハネに呼び掛けておられるのです。弟子たちの口を通して、聖書の預言の数々を通して、彼の耳に入ってくる様々な情報をとおして、ヨハネよ、あなたは幸いを選び取りなさい、と個人的に語り掛けておられるのです。

 これから新しい一週を歩み出そうとしています。また新しい月を迎えようとしています。教会も然りです。あるいはヨハネのように、私たちの期待や希望と現実とが合わない中を通過するかもしれません。殊更に私たちの信仰との関わりで疑問が生じる事態に巻き込まれたり、向き合ったりするときに、私たちは思い起こすように招かれています。「わたしにつまずかない者は幸いです」イエスさまは単数形で私に、あなたに語り掛けておられます。あなたはわたしから離れないでいなさい、と。その御声を聞き分けて、大いに救い主を信頼しようではありませんか。主のなさるみわざを待ち望もうではありませんか。遠慮なくイエスさまに期待をさせて頂こうではありませんか。

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