「役割を果たす地の塩」マタイ連講019
聖書:マタイ5章13〜16節
「地の塩、世の光。」とは教会の中だけではなく一般でもしばしば使われるフレーズです。しかも、「あなたがたは」と迫りなさったその眼は変わらずに鋭く群衆の一人一人に向けられています。13節と14節に、ちょうど対になるように地の塩と世の光とが並べられているのは、他の福音書と読み比べましてもマタイ独特の記録です。しかももともとのことばの響きを意識しますと、「あなたがたが地の塩、あなたがた自身が、あなたがたこそが地の塩、世の光」という具合に、今まで以上に群衆に加わる人々を指差すように、鋭く話になっておられるのです。地の塩、世の光、どちらもイエスさまにつき従う人々の生き方を、イエスさまからご覧になってお示しになられた聖言です。
しかも敢えて言うならば、主は地の塩、世の光を目指しなさい、そうなりなさいと命じてはおられません。地の塩、世の光になれるといいですね、と励ましておられるのでもありません。イエスさまにつき従う人々は皆既にそうなのです。それだけに私たちは、この群衆の中の大勢もそうであったろうと想像するのですが、そう宣言されて私たちはたじろぐのです。しかしこの語り掛けは決して高い理想を掲げることで、つき従う人々を萎縮させ、たじろがせるためのおことばではなく、むしろつき従う一人一人に、その生き方が持つ可能性の豊かさをお示しになる、いわば希望のおことばなのです。
連続講解をする機会が与えられましたので、一つ一つについてもう少し丁寧に、イエスさまの御心を悟らせて頂きたい、そう願っております。今朝は「地の塩」について、来週は「世の光」について心を傾けたいと思います。
1大地の塩である弟子たち
イエスさまは群衆に向けて世の光と並べるように、地の塩だとお告げになりました。「地」ということばにも色々な側面があります。文字通りに地面を指すこともあります。また領土を表すことばでもあります。けれどももう少し象徴的で幅の広い意味合いも「地」ということばは持ち合わせています。例えば数週間まえに学びましたけれども「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」という聖言では、地とは私たちの日々の生活の舞台だと学びました。これから学びます主の祈りでも「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈りますときには、地上での生活が意味されています。
イエスさまがつき従う人々を「地の塩です」と仰せになられたとき、それは雲の上の、だれも届くことのできない世界の絵空物語ではなくて、人々の生活の只中で成り立つ理想だということが意味されているのです。しっかりと大地に足を踏みしめながら歩むような日々の生活、蒔かれた種が根を降ろし、その根を広く深く地中に張るように日常の歩みの一歩一歩の中で、私たちは「地の塩」として歩むのです。私たちの教会もまた、主が根を降ろさせてくださったこの地域にあって地の塩として存在しているのです。
2塩気を持つ弟子たち
さて、イエスさまは「塩気」についてお話をなさいます。そして塩気をつけることや、塩気をなくしてしまうことについて説き明かします。ここで私たちはこの塩気が何を意味しているのか、と考えるでしょう。ある注解書には少なくとも11通りの役割が塩にはありそうだ、などと書いてありました。イエスさまは決していくつも塩の役割や効力を並べなさったり、そのうちのいくつかを特定してこの喩えを話されたりなさったわけではないでしょう。むしろ塩の役割、塩気とは実に多様なもので、それこそ人の数だけ、その人々が置かれる状況の数だけあり、その一つ一つにふわさしい塩気の役割があって、主の弟子たちはその時、その時に主の弟子らしく立ち振る舞うことをイエスさまは望まれたのです。塩気は平和を生み出し(マルコ9:50)、親切な言葉となり(コロサイ4:6)、真実を語る口となる(ヤコブ3:12)。群衆の一人一人がそれぞれの町や村に戻り、家庭や職場に、地域に戻っていくときに、その場で主イエスさまの弟子として踏み出すならば、そしてそのように歩み続けようとするならば、塩は塩気を保ち、塩気をつけ続けるのです。
3役に立つ(踏みつけられる)弟子たち
さて主イエスさまは塩と塩気のお話をなさる中で、問答をなさっています。この問答を通してイエスさまは塩気が「役に立つ」ということを語られました。あなたがたは地の塩です。塩は塩気があり、日々の歩みの中にあって様々な場面で塩気をつけるのです。そしてその塩気はこの地にあって、役に立つのです。主イエスにつき従う人々は、群衆が解散して後、それぞれの家に戻り、町や村に戻り、職場や近所に戻って行き、そこでイエスさまの弟子らしく生きるときに、そこで役に立つのです。
塩気には無数の働きがあるということを今さっき読み取りましたが、そうであるとするならば、その数だけ主イエスさまの弟子たちは役に立つ、ということなのです。私たちはこの朝も礼拝の場を去って、日常に戻りますけれども、その場でこの一週もイエスさまの弟子として立ち振る舞う数だけ、役に立つ、そのような存在なのだとイエスさまは語っておられるのです。
群衆は今に捨てられるか、今に人々に踏みつけられるかとビクビクしながら日常に送り出されるのではありません。イエスさまは私たちが踏まれることを想定しておられるのではない。主は全力で私たちが塩気を保ち、役に立ち、そして幸いを得、豊かに報われることを望み、私たちの天の父が崇められるように、私たちのうちに聖言を豊かに住まわせ、信仰を励ましてくださいます。迎えます一週もその主イエスに付き従って前進を続けようではありませんか。
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