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「弟子たちを迎え入れる教会」マタイ福音書連講[065]

聖 書:マタイ10章34〜42節


これまでも主はご自身がお出でになられた御目的を明かされる場面がありました。山上の説教の中では律法を成就するためにと仰せられ、罪人を招くため(9章)、そして多くの人の贖いの代価(20章)としてお出でになった、と説き明かしておられます。そのような中で、今朝お読みした聖言は随分と異なる空気を漂わせており、読者は躊躇を覚えなさるかもしれません。確かに福音を生きることには覚悟が求められるでしょうが、イエスさまはご自身がまさにそのためにいらしたと言われているのでしょうか。人の幸いや真実の愛、家に訪れる平安などは幻想で、本当のところ言えば神の国は、つるぎと敵対をもたらすものだということなのでしょうか。直感的にイエスさまがご自身を偽るようなことを仰せになるはずはない、と私たちは立ち止まり、改めてイエスさまが語って来られたことを思い起こしながら耳を傾けましょう。


イエスさまのこのおことばは先週まで読んできました一連の御教えの流れの中に込められているおことばです。弟子たちはこれから宣教に出掛けて行き、各地で反対にあったり、なかなか受け入れられなかったりするときに、自分たちのせいだ、自分が悪いのだと絶望することから守られるのです。主にあって希望を抱くことが許される。またこの世の罪と悪の力があまりにも強大で太刀打ちできないと恐れることはないのです。信仰を抱き、勇気を与えられて前進するのです。そしてこの延長線上に今朝の聖言が語られたのです。元々は、わたしが来たのは平和を投げ込むためだと思ってはいけません。わたしが投げ込むのは平和ではなく、つるぎだ。ここから始まってしばらくそのイメージ広がります。最も身近な人々の間にさえ剣が投げ込まれるのですから、いわんやその他の人間関係に至っては、という広がり。御弟子さんたちの働きの中で対立が生じるときに、まずイエスさまの御手の中にあることを思い起こすための大切なお言葉なのです。


イエスさまは角度を変えなさって、ご自身と弟子たちの結びつきについてお話しになります。37〜38節ですがここもまた衝撃的なお言葉が続きます。立て続けに三回こんな人は「わたしにふさわしい者ではありません」と繰り返しなさいます。これらは主が絶えずご自身と人々が最も大切にする身内とを天秤に掛けて、二者択一を迫られる絵図ではありません。弟子たちが福音を伝えるときに、平和ではなくつるぎが投げ込まれ、対立や敵意が生じるときに、それを手のうちに収めているのは、あなたがたの父や母ではなくわたしだ。敵意や悪意を掌握するためにその場に立ちはだかることができるのはあなたの息子や娘ではなくわたしだ、と言われているのです。そのときにわたしを選びなさいと。

それなので、弟子たちは自分の十字架を負ってイエスさまに従うことができるのです。そのことを信じることができないならば、弟子として従うことは難しく苦痛でしかないでしょう。そういう意味でふさわしくないのです。イエスさまに対する信頼を、まずはイエスさまと弟子たちとの結びつきを確立させることが大切なのです。マタイの福音書の中で初めて十字架のイメージが掲げられました。第一義的には弟子たちが担うべき使命や重荷を例えるのに描かれたイメージですが、主は既にご自身が担われる贖いの十字架を明確に見据えなさって、弟子たちを送り出しなさったに間違いないのです。そしてペンテコステを越えて誕生した教会は、初代教会から始まって今年72周年を記念します私たちの教会に至りますまで、この聖言に耳を傾ける度に私たちのためにイエスさまが担ってくださった贖いの十字架を確かに思い起こし、ご自身のいのちを差し出され、3日目にその死に打ち勝ちなさったイエスさまを思い起こし、改めて主を愛する弟子として、いかなるときもイエスさまをお頼りする弟子として歩み出そう、と信仰を働かせるのです。その信仰にお応えになるようにイエスさまは仰せになります。「自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」


神の国、福音は一貫して私たちがいのちを得て、豊かに生きることを約束しています。イエスさまに信頼する者こそがいのちを得るのです。お弟子さんたちを送り出しなさるにあたってイエスさまは重ね重ね、彼らがいのちさえも危険にさらされる現実に送り出されることを戒めて来られました。またしても「いのちを選びなさい」。


さて、最後の段落で今一度、弟子たちを受け入れる人、家の幸いについてイエスさまはお話になられます。再び三回繰り返して「受け入れる人」を、主の弟子たち―「小さい者たち」―の一人に冷たい水を一杯差し出す人は必ず報われるとお約束なさって、派遣のおことばを締め括りなさいます。イメージとしては旅人を家に迎え入れることを意味しています。さらに、当時の教会が町の中で比較的大きな家を構えることができた家族が、その家を開放して礼拝を献げるために場所を提供していた事情を考え合わせますと、この福音書に耳を傾けた初代教会の聖徒たちは、イエスさまが「その人のところにとどまりなさい」「その家に入るときは」と仰せられるのを聞いたとき、その家で集まった教会を容易に想像し、「あなたがたを受け入れる人」と言われたときもまた、だれかの個人住宅を想像したのではなく、そこに集う主の教会が弟子たちを、主の働き人を、ひいては主にあるお互いを歓迎し合う、そのような信仰共同体、イエスさまが設計された教会の青写真をこのおことばに見出したのです。これは確かに弟子たちを送り出す派遣のメッセージではありますが同時に、送り出された弟子たち、小さい者の一人でも、迎え入れる教会の麗しい姿なのです。

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