「平和をつくる者」マタイ連講[017]
マタイ5章1〜9節
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」山上の説教の場面を思い浮かべながら、イエスさまが群衆に向けてこの聖言を語られたことを想像しますと、いささか違和感を覚えます。イエスさまは平和を追求する者、平和を愛する者、望む者についてお話しになっているのではなくて、平和をつくる者、と御声を掛けておられるのです。これに反対する人は多分あまりいないでしょう。しかし自分に誰かが同じことばを掛けてきたら、相当の方々は二の足を踏むのではないかと想像するのです。しかもそれは決して平和を忌み嫌うからではありません。そうではなくて平和をつくることは、誰にでもできることでなく、つくる「力」を持っていなければいけない。平和をつくる者になるには力が必要だと考えるからです。
しかし主イエスは時の権力者でもなく、ユダヤ人の信仰を指導する宗教家でもなく、主につき従う群衆へ「平和をつくる者」の幸いを告げなさったのです。違和感を感じるのはそこです。そしてその群衆の中に、今朝私たちも紛れています。私たちに何か力や能力があるから主イエスは呼び掛けなさっているのではありません。私たちに何か力や能力を身に着けるように命じておられるのでもありません。群衆に向けて、皆に御声が届くように、これまで耳を傾けて参りました一つ一つの「幸いです」と同様に、「平和をつくる者」も私たち一人一人に分け隔てなく告げられている聖言であることを、今朝は殊更に肌身に感じるのです。そしてそれだけに重たい語り掛けだということを自覚しながら御読みしています。
平和をつくる、とは実は聖書の中でもここでしか語られていない、とても貴重なおことばです。一方平和というキーワードはとても幅広く、また頻繁に記されています。福音の中心近くに置かれている大切な世界です。ヘブル語ではシャローム、新約聖書でエイレーネということばで、文脈によって「平和」と訳されたり「平安」と訳されたりします。使徒パウロは手紙の挨拶部分で大概「恵みと平安があるように」と綴りますが、その平安がこのエイレーネです。聖書はある意味、平和や平安を祈り願い、待ち望み、平和を愛し、重んじる聖言に溢れています。
何故聖書が平和に満ちているかといえば、それはこの世界が絶望的なほどに、あらゆる次元で平和を失っているからです。聖書が私たちに示す世界の現実です。聖書は世界が平和を失った元凶を罪と呼びます。罪は戸口で待ち伏せし、私たちを恋い慕う。神はそれを退けるように厳しく命じなさいますが、人はむしろ心のうちに招き入れ、その結果平和は失われたのです。人はアダムとエバのときから、神さまの祝福に溢れた語り掛け、戒め、命令に背を向ける度に平和から遠ざかっていきました。しかし罪がもたらす本当の不幸は平和の源であられる神さまから遠ざかることです。
平和・平安を失っている、とはただ単に戦争が起きている、喧嘩が絶えない、というだけの不幸ではありません。聖書が平和を失っていると私たちに警鐘を鳴らすとき、それは神さまとの距離がますます離れていっている致命的な霊的現実を指差しているのです。こちらこそが深刻なのです。
ますます「平和をつくる」など、とても私にはできないことだと失望されるでしょうか。しかし私たちの現実はそれほどまで深刻なところにあるのです。そして「平和をつくる者は幸いです」という語り掛けは、御花畑を夢見るロマンティックな人のつかみどころのないことばではありません。絶望的なほど深刻な現実を見極める方が、その闇の最も深いところに突き刺す両刃の剣、人にとって絶望的なほど困難なわざに私たちを巻き込む召喚状なのです。それでも主イエスは権力者たちではなく、指導者たちではなく群衆に向けて告げておられるのです。なぜならば、イエスさまがお約束なさっている平和はこの世界の隅々に行き渡る種類の平和、一人の人の最も深いところにまで染み渡る種類の平和なのです。絶大な権力者であれ、影響力のある学識者であれ、人気絶頂の著名人であれ、徹底してできることには限界があります。それだからイエスさまはご自身につき従う群衆の一人一人に呼び掛けておられるのです。あなたを「平和をつくる者」となって送り出そうとイエスさまは群衆を見渡しなさったのです。
当時の群衆がその厳粛さを十分に弁えていたのかは疑問です。それでも主のおことばに権威と力を直感して聞き従ったのです。それを主は信仰だと言ってお喜びなられました。しかし私たちは当時の群衆とは大きく異なります。私たちはイエスさまが実際に「平和をつくる」方としてどこまでなさるのかを目の当たりに見せて頂いています。他でもない十字架を私たちは見せて頂いています。失われた全ての平和と平安を取り戻すために、十字架の死によって見事に「平和をつくる者」の事実をお見せになられたのです。その上で私たちに呼び掛けておられるのです。
そして平和をつくるわざに向かう私たちに「あなたは幸いだ」と慈しんでくださり、「神の子」と呼んでくださるのです。神さまとの和解が成立して、平和を与えられた人々にこれ以上ふさわしい呼び掛けはないでしょう。神さまは私たちが、私たちの持ち場立場にあって平和をつくる者であろうと踏み出すときに幸いな者よと声をお掛けくださり、「神の子」とお呼びになって、私たちとこれ以上ないほどに結びついていることを証ししてくださるのです。私たちはそのことを確信して、立ち上がらせて頂こうではありませんか。
👈 先週の記念礼拝のために献げられました
見事なグラジオラス!
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