「完全でありなさい」マタイ連講[026]
聖 書:マタイ5章43〜48節
「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」
あなたがたは完全でありなさい、という強い聖言もイエスさまは藪から棒に言われたのではなく、始まりはこれまでと同じように、モーセの書からの戒めの引用からです。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め。』前半は私たちが親しみ尊ぶ聖言の一つです。ところがイエスさまは変更を加えなさいます。「あなた自身のように」という鍵句ではなく、「あなたの敵を憎め」というこれまた強い聖言です。旧約聖書にこの文言通りの戒めは見つかりません。ユダヤ教の他の書き物の中にもあからさまに「あなたの敵を憎め」と命じる文章はないそうです。むしろ敵対する者に寛大であれ、と戒めるおきてがあるそうです。イエスさまがここで「こう言われているのを、あなたがたは聞いています」と言われたとき、それはただ単に巻物に書き記されている文言を指摘されたのではなく、そこに込められた人々の本音を告げておられるのです。人々の耳には「あなた自身のように」よりも「ああなたの敵を憎め」と言われる方が馴染みやすかったのかもしれません。それが果たして神さまの御心なのか、群衆は改めて向き合うように迫られているのです。
「あなたには愛すべき人がいる」と律法は人々に語りかけています。この語り掛けは今日の私たちにも鮮烈に迫ります。末の世にあっては「多くの人の愛が冷えます」と主も予見なさいます(マタイ24章)。愛が冷めてしまった人々や時代に向けて主は今日も「あなたには愛すべき人がいる」と語られます。
1敵意と悪意の現実の中で愛しなさい。
第一にイエスさまは「あなたの敵を憎め」の部分に光を当てなさいます。あなたには愛すべき人がいると迫る律法は、決してあなたには愛さなくてもいい人もいる、とは言っていないのだと主はまず告げなさいます。人が愛さなくてもいい人と言われてすぐに思い当たるのは、その人に敵意や悪意を向ける人々でしょう。彼らは愛される必要もなければ、そもそもそんな望みもないに違いないのです。それでも主は「自分の敵を愛しなさい」と言われます。自分の敵とは、自分が敵意を抱いている誰かではなくて、自分が何をしたでもないのに、自分に敵意を向けてくる人々のことです。この世は理想的な花畑ではないことを私たちもそれなりに感じていることです。私たちは世にあっては自ら敵をつくらずとも、敵や反対者の悪意に巻き込まれていくのです。その中でイエスさまは「敵を愛しなさい。迫害する者のために祈りなさい」と言われたのです。
2子が父に似るように愛しなさい
さてイエスさまはすぐに神さまを仰ぎ見ておられます。45節「天におられるあなたがたの父の子どもになるため。」これは決して父と子の親子関係を新たに結ぶための条件であるかのように読むのは本意ではありません。私たちと神さまの関係は何かの条件を果たすか否かで決まるような機械的なものではありません。ここでイエスさまが「父の子どもになる」と言われたのは、子どもがその父と親子の関係にすでにあるので、自ずと子どもが親に似ることを意味しています。遺伝子のために顔の形や背格好が似通うことはありますが、それ以上に、その子どもが親を敬愛していれば、その考え方や表情、生き様が似通うという次元があります。イエスさまが言われているのはそういう意味合いです。
人が天の父に似るのは「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」圧倒的な豊かさです。圧倒的に豊かなので、それを受ける人々を選り好みする必要がないのです。不本意にも悪い者に雨の潤いが豪雨のように降り注いだところで、正しい者のための水が不足してしまう程度の愛ではないのです。あなたが父に似るのはそこです。天の父が注ぎ出す人への愛と、あなたが注ぎ出す愛とは同じものであることへの気付き。神の子とされたお互いのうちから湧き出る愛はその圧倒的な豊かさの故に敵を呑み込み、迫害者を祝福しても豊かにあまりあるものなのです。
3隣人を探す世に明かすように愛しなさい
さらに主イエスはと取税人と異邦人を描かれます。取税人たちは同じユダヤ人同士ですが、彼らの職種はユダヤ人からしてみれば裏切り者、それで隣人とは見なされません。それだけに取税人同士の仲間内では繋がりを大切にしないとやっていけないのです。「自分を愛してくれる人を愛した」とはそういうイメージです。異邦人は文字通り民族的にいってもユダヤ人でない人種をすべて指します。それでローマ人にはローマ人同士の絆を表す挨拶があり、ギリシア人同士も同様で、他の民族もそれぞれ自分の同胞とだけ交わせる特有の挨拶がありました。ユダヤ人同士であれば「シャローム」に込められた同胞意識。
取税人と異邦人に共通するのは、愛や信頼を通わせ合うことができる仲間が限られているところです。しかしそこには言いようのない虚しさがあるのです。「何の報いがあるだろうか」「どれだけまさったことなのだろうか。」もっと豊かな世界、もっと広がる可能性はないのだろうか。イエスさまは群衆にあなたがたが示しなさい、と迫られたのです。。善人にも悪人にも分け隔てなく注がれる愛、迫害者たちに善と祝福を報いる愛を、天の御父があなたがたに注がれた慈しみを思い起こすように。
「ですから」とイエスさまは結ばれます。「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」律法の一つ一つのうちに神さまの御心があり、私たちの日々の歩みの中でその一つが実を結ぶたびに、天の父が完全であられるお姿を私たちは世に証詞することになるのです。
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