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「安息日の主」マタイ福音書連講[072]

聖 書:マタイ福音書12章1〜8節


12章からしばらく、ある安息日に起きた出来事を丁寧に追うことになります。ある安息日に起きた出来事の話に進みますが、イエスさまが群衆に向けて「わたしのもとに来なさい…休ませてあげます」と仰せになった流れを汲みながら「安息日」に話題が移っていきます。

最初の場面は「麦畑」です。9節でイエスさまたちは会堂に入られますから、おそらく安息日の礼拝に向かうところだったのでしょう。今でも私たちは教会で日曜日のことを安息日と呼びます。私たちはこの日を聖別して礼拝をお献げし、ご奉仕に加わり、また伝道のために労したり致します。けれどもその心はいつでも安息を得るところにあります。休ませてあげます、と呼び掛けてくださるイエスさまのお招きに応答するのが安息日の過ごし方です。

さて、問題を持ち掛けて来たのはパリサイ人で、「安息日にしてはならないことをしています」と訴えてきました。イエスさまは彼らの訴えを完全に退けなさいますが、その訴えには遥かに根深い、致命的な問題があって、その点に光を当てなさいました。その致命的な誤りは、安息日についての律法をどのように守るかという点である以上に、彼らが今問い掛けているイエスさまをどのよう弁えるかという点だったのです。言い方を変えますと、イエスさまがどなたであられるかを見誤ってしまったので、安息日についての理解も、その過ごし方も、すべてについて目算を誤ってしまったのです。

宗教家たちは何も人々の生活を不便にしよう、支配しようと目論んでいるわけではなく、むしろ神さまに喜ばれようとして努めているのです。彼らの視線からすれば、神さまに対する熱心さ、敬虔さの産物だと言えるかもしれません。しかし、その熱意や敬虔がやがて独り走りを始め、暴走し、やがて逸脱をする危険を孕んでいることを私たちは知らされています。その先走りから守られるためには主イエスを正しく仰がなければなりません。


1「宮よりも大いなる」方

イエスさまは「ここに宮よりも大いなるものがあります。」と仰せになります。

旧約聖書から、ダビデが空腹を訴える家来のために聖別されたパンを食べさせたエピソード(1サムエル21:1〜6)と、モーセの時代、カナン入植後の生活の中で、祭司たちが安息日であっても奉仕を課せられている事例を挙げなさいます(民数記28:9〜10)。律法が与えられたときから、時代を越えてその律法が遵守されてきた歴史の中で、宮に仕える人々によって適切に、相応しく判断されてきた二つの事例です。しかし今、安息日の禁止事項一覧を掲げる宗教家たちの前におられるイエスさまは、その「宮よりも大いなるもの」であられ、この方が仰せになることに信頼して大丈夫。イエスさまがお下しになる判断、お導きに従えば間違いない、と宣言なさったのです。


2再び「真実の愛」を明かされる方

さて、ここでイエスさまはホセアの預言を引用なさいます。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。」9章にイエスさまがこの預言を引用なさり、真実の愛を弁えていたならば、医者が病んでいる人のところに行くように、ご自身が罪人のところに行かれるその御心が分かる筈だ、と諭されました。今回は、この真実の愛を弁えていたならば、責められる必要のない人を断罪するような愚かな判断を避けることができた筈だ、と憂えなさったのです。私たちは神さまが定めなさったハードルの高さを人の勢いや熱心で求められてもいない高さに引き上げることをしてはなりません。「人はときとして神さまよりも信仰的になる」という表現があるそうです。神さまが定めなさった高さに輪をかけて、もっと高く、もっと狭く、もっと厳しくハードルを上げるときに、神さまが罪をお認めにならない人々が、人によって断罪され、良心に責めを負い、喜びを奪われ、不安に縛られるのです。そのようなときにこそ、イエスさまは、またしてもわたしを見なさい、と言われるのです。真実の愛を求め、真実の愛を物差しにし、真実の愛を歩むわたしを見ていなさい、と。イエスさまを仰いで、安息日の決め事を守ることと、弟子たちの空腹を満たすこと、どちらが神さまの喜びとされる真実の愛なのか判断をするように。


3安息日の主である方

イエスさまは結ぶように最後にこう仰せられます。「人の子は安息日の主です。」イエスさまがご自身のことを「人の子」と言われるとき、そこには神さまから託された権威をお持ちであることを表す側面があります。人の子は罪を赦す権威を持っている、と仰せになられたこともありました。「安息日の主です」とは、本当の安息とは何か、わたしが知っている。わたしが与えるという宣言です。ですから「人の子は安息日の主です」という聖言と「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われたおことばとは、その本質は同じお招きなのです。わたしのもとに来なさい。わたしから学び、わたしのくびきを負いなさい。イエスさまは大いなる権威を伴いながら、すべての人を招かれます。私たちは今朝も安息日の主を仰いで礼拝をお献げするように招かれたのです。そのお招きに信仰を持って応答する者たちを「罪はない。咎はない」と祝福してくださいます。十字架におかかりになり、いのちを差し出しなさって私たちを贖い出してくださったので「咎はない」と宣言なさるのです。よみがえりの力をもって、私たちに新しいいのちを与えてくださるので、私たちは咎から解放された歩みを心いっぱい歩むことが許されるのです。その動力は真実の愛です。迎えます新しい一週、お互いの歩みに絶えずイエスさまからの安らぎがありますように。

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