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「失う恐怖を越えて」[創世記連講62]

聖書創世記42章25〜38節


ツァフェナテ・パネアハ【改めヨセフ】からスパイ容疑をかけられた兄たちは次男のシメオンを人質に取られて、ようやく食糧を買い求め、ひとまず父ヤコブのもとに帰る場面を今朝は御読みしました。一族のもとに戻るのですが今回も一筋縄ではいきません。旅の途中で一泊するのですが、そのときにロバに餌を与えようとして穀物の袋を開けると、その袋の中に穀物の代金として支払ったはずの銀が入っていたというのです。私たちは先週、ヨセフが兄たちの袋に穀物を満たすときにそれぞれの袋に銀を戻すよう担当者に指示を出している場面を読みましたから、私たち読者は何が起きているのかを知らされているのですが、兄たちはもちろん何も知りませんから、彼らは動揺し、身を震わせたのです。動揺した、とは直訳すると心臓が止まったという言い回しだそうです。彼らはお互いにこう言い合うのです。

「神は私たちにいったい何をなさったのだろう。」

自分たちの身に起きていることを自分たちでは如何しようも無い、という無力感です。「神さまがなさっているのなら、お手上げだ」という無力感。そしてただ単に無力感を味わっているのではありません。ここが鍵なのですが、彼らは恐怖を覚えたのです。心臓が止まるほどの動揺、そして身震いするほど恐れたのです。彼らが失うものがあまりにも大きいことに身震いしたのです。

彼らは父ヤコブのもとに戻ります。そしてエジプトで起きたこと、帰り道で起きたことをつぶさに報告します。父ヤコブの家に戻って改めて穀物の袋を開けると、旅の途中で袋を開けた兄弟だけでなく、すべての袋に支払ったはずの銀が戻されていたので、兄弟たちは言うまでもなく、父ヤコブまで恐れた、と記されています。彼らは恐怖を共有したのです。

父ヤコブの恐れは格別なものでした。次男のシメオンを囚われてしまい、取引の条件として末息子のベニヤミンをエジプトに連れて行かなければならないというのです。そのベニヤミンまで失ってしまう可能性を考えただけでヤコブは耐え難い恐怖を覚えたのです。人は失う恐怖に対して非力なものです。実際に失う前からその恐怖に囚われるものです。友だちや大事な人を失う恐怖、経済を失う恐怖、信頼や人気を失う恐ろしさ、兄たちは安定した暮らしを失うことを恐れ、その先に生命さえ失うかもしれない恐怖に震え上がります。父ヤコブもそうですが、彼はそれとともに末息子のベニヤミンを失うことに身震いをして、頑なにエジプトの大臣が突きつける条件を退けます。ですから兄弟たちはまたエジプトに行くことができません。42章の後半は実に恐れに溢れています。

実はこの点も私たちの救いの経験とよく重なるのです。人がクリスチャンになろうかどうかと言う場面に突き当たるとき、最後に私たちに差し迫るのは失う恐れです。これまでの生き方を失うのだろうか。これまでの考え方を奪われるのだろうか。趣味や習慣はどうなのか?付き合いは?人は失う恐怖に対して非力です。そして私たちが神さまに救われる、クリスチャンになるというときに、最後に阻むのが失う恐怖ではないでしょうか。その恐れは決して軽々しいものではありません。兄弟たちが袋の中に支払ったはずの銀貨を見出して、それが何を意味しているか想像しただけで身震いしたように、父ヤコブがベニヤミンを要求されていることを聞いたときに、断固として拒む姿勢を取ったように、失う恐怖は本物です。

それでも福音は私たちに迫って来たのです。罪を告白して赦しを得るように。その罪責から解放されるように。そしてそれだけではありません。いのちを得るように。本当の意味で生きるように。力強く、生き生きと歩むように。ヨセフはエジプトの民や周辺の諸国に飢饉を生き長らえる、生き延びるのに十分な食糧を提供しました。けれども福音は生き延びるための間に合わせではありません。新しくいのちを与えられ、そのいのちは私たちの日々の動力になり、実り豊かな歩みへと私たちを招くのです。

私たちはヤコブの恐れや、息子兄弟たちが身震いしている恐怖の本当の姿を既に読ませて頂いています。父ヤコブの恐れが見当違いの取り越し苦労であることを知らされています。これが創世記の物語り方です。そして聖言を通して神は私たちに迫っておられます。「失う怖さに身震いをしていないか」と。イエスさまを信じる新しい信仰者の生き方に踏み込むかどうか、足踏みをされている方々だけのことではないでしょう。私たちお互い、大きな決断に迫られるとき、日常の細かい事柄だって十分に私たちを身震いさせたりするかもしれません。その度に私たちはヨセフ物語を思い起こすように招かれています。そして私たちを身震いさせるようなことが何であれ、それを包むように神さまの善意と祝福が私たちを覆っていることを思い起こすのです。私たちの歩みの中にあって神さまは折にかなった助けを備えてくださいます。そして何よりも、だれよりも信頼に値する御助けは私たちのためにいのちを差し出された主イエスさまご自身です。私たちがイエスさまから目を離さずにいる限り、私たちは恐れから解放されます。問題や課題が霧のように消えるわけではありません。険しい道のりは続くかもしれません。それでも私たちは一歩ずつ前を進んで行くことができる。そのような力が与えられ、希望と夢を見せて頂きながらともに信仰を全うさせて頂こうではありませんか。



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