「多くの人のいのちを」創世記連講[75](終)
創世記の記事はヨセフが110歳の長寿を全うして召されたこと、その遺体は父ヤコブ同様にミイラにされたこと、そして亡くなる前にヤコブ同様、神さまが再び一族をエジプトの地からカナンまで連れ帰ってくださることを告げて、語り継がれてきた神さまのお約束を次世代に伝えます。今朝、特に心を留めるように導かれていますのは、ヨセフと兄弟たちの間の会話です。
父ヤコブの埋葬も済み、一族に日常が戻ってきた頃、ヨセフの兄弟たちの間で大きな不安が生じたのです。今まで父ヤコブが生きていたのでヨセフも兄たちの過去について問い質したり、制裁を加えたりすることはしてこなかったけれども、いよいよ父親がいなくなり、今まで秘めてきた怒りや恨みを向けてくるのではないか、と。それで彼らは父ヤコブのこのことばを裏付けにして、自分たちを赦して欲しいと願い出たのです。兄たちのことばから一つ、今はっきりと分かること、それは兄たちがかつてヨセフを捉えて売り渡したことは、言い訳のしようがなく「悪いこと」であり「背きと罪を犯した」と認めたところです。彼らが心底認めている証しに兄たちは「恐れた」のです。自分たちが今やヨセフに対して劣った立場にあることを認めます。「私たちはあなたの奴隷です」とはそういう兄たちの心の表れでした。
さて、一方のヨセフはというと、彼は兄たちの訴えに対して、「赦しましょう」とは言いません。勿論赦したくないから、ではありません。少なくとも二つ理由があるように読み取れます。一つには、ヨセフのうちでは「正義は神さまがお決めになる」という根強い信仰が働いていたのです。つまり何が正しくて、何が不正なのかという物差しを持っておられるのは神さまだけだ、という弁えです。19節「どうして、私が神の代わりになることができるでしょう」とはそういう意味です。神さまだけが正義を讃え、不正や悪、罪や汚れを指差しなさって断罪をなさったり、断罪を越えて赦しなさる資格をお持ちなのです。この弁えを私たちクリスチャンは共有しています。
イエスさまの時代にそのことが問題となる出来事がありました。四人の男たちがからだの不自由な友人を天井から主イエスの下に連れてきたとき、主は「あなたの罪は赦された」と宣告されました。そのときイエスさまも同じお考えでいらしたのです。イエスさまは、まさに神さまだけがお持ちの赦す資格をお持ちだということ、しかもイエスさまはその資格お用いになってどのような罪や汚れ、邪悪に囚われている人でも解放をなさるお心をお持ちなのだということをお示しになられ、人々を本当に幸せな人生にお招きになったのです。ヨセフは同じ真理をわきまえて、自分には人を赦すなどと大それたことはできない。そのみわざは神さまにお任せしましょう。しかもお任せする神さまは私たちのために祝福だけの望んでおられる方、「生めよ、増えよ、地を満たせ」と仰せになり、私たちにいのちを与え、そのいのちを豊かに生きるようにお養いくださり、そのいのちを全うすることができるように導かれる方。寛大なヨセフに優って確かな赦しと慈愛を給わる幸いをヨセフは弁えていたのです。それで彼は「どうして私がそんな神さまの代わりを務めることができようか」と兄たちに返答をしたのです。
ヨセフは兄たちの悪行を有耶無耶にしてしまったのではありません。しかしヨセフは人の悪にではなく、神の善、いや神が善であられることに心を留めたのでした。神が善であられるということは、とりもなおさず「多くの人が生かされる」ことに他ならなかったのです。ここで創世記の1章に舞い戻ります。神が人をお造りになったそのときから今日まで、「今日のように」私たちが一人残らずいのちを得て、そのいのちを豊かに生きて、そのいのちを最後まで全うして、そのいのちを次の世代に引き継ぐこと、それを祝福として私たちに惜しみなく与えよう。その実現のために必要なもの、望ましいもの、善なるものは何でも分け隔てなく惜しみなく与えよう、というのが神さまの御思い。そしてそれを妨げるもの一切から私たちを解き放ち、自由にすることを望んでおられるのです。
人は神さまが際限なく祝福をしてくださることを信頼して、その壮大な恵みの波に乗って力強くいのちを燃やすことが祝福の道なのです。創世記はその始まりから最後まで一貫して私たちを神さまの祝福の人生に招き入れています。神さまは全能のお方、その際限ない御力で私たちをこの上なく愛してくださり、祝福を注いでおられます。どれほど愛しておられるのか、それはイエスさまの御誕生で決定的に明らかにされます。「神は実にそのひとり子を御与えになったほどに世を愛された。」この世にある人々が一人も漏らさず滅びずに、永遠のいのちを持つため。ヨセフは最後に繰り返し神さまが自らの一族を顧みてくださる、と語ります。創世記の神さまは私たちをも同じように顧みて来られました。そしてこれからも変わらずに祝福をもって私たちを導いてくださいます。私たちはアダムやエバのように、与えられた務めや役割を捉え、ノアのように神さまの前にいることを意識して忠実に従い、アブラハムのように信仰を働かせ、イサクのように忍耐の限りを尽くし、ときにヤコブのように果敢に攻め、ヨセフのように希望あふれる夢を見せて頂きながら、お互いに神さまを仰ぎ見、神さまからの恵みと賜物を存分に頂き、究極の賜物である救い主イエスさまをお互いの心に迎え入れ、私たちの群れの只中にお迎えして、前進を続けようではありませんか。
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