「善行(3):断食〜深い痛み・悲しみ」[マタイ連講037]
【教会総会準備講壇③】
聖 書:マタイ福音書6章16〜18節
6章から主は当時の敬虔なユダヤ人の間で尊ばれてきたいくつかの善行について諭してこられました。まずは施しについて、次に祈りについて、そして今朝は3つ目の善行、断食についてです。断食とは食べ物を断つということがメインではなく、食べることを止めてその時間に祈りを献げる。祈る時間を得るために食べる時間さえも犠牲にする習慣です。ユダヤ人にとって断食とは祈りとは次元の異なる尊い習慣だったのです。少々乱暴な言い方かもしれませんが、有り難みが一段と上がる営み。しかし自分から断食していることを吹聴するのは流石に宜しくない。それでやつれた顔をしていかにも断食中である空気を振りまくのです。そうすると周囲の人々は勝手に断食をしていると思って讃えてくれる。イエスさまは決してそのような宗教家たちを姑息だと言ってお叱りになっているのではありません。問題はもっと根本にあります。断食を人々に見せつけるのは、信仰の世界では致命的なのです。
イエスさまのおことばどおり、断食をする人は自ずと「暗い顔」になる。これが断食の一つの特色です。決して空腹だから暗い顔になるわけではありません。断食の祈りというのは、何でもかんでも熱心に祈る現れとして絶食をするわけではありません。例えば喜びの絶頂にいる人が、その喜びを思いっきり表したいからと言って断食はしません。どれだけ賛美をしても感謝をしても「暗い顔」にはなりません。むしろ生き生きとします。
そうではなくて、私たちの深い悲しみ、恐れや不安の極みを祈る時に私たちは暗い顔になり、またやつれるのです。つまり断食の祈りとは、祈りの中でも人のうちに根付く最も深い類の悲しみを神さまに告げる祈りなのです。例えば旧約聖書の中で記録されている断食の祈りの多くは悔い改めの祈りです。神さまに対する罪に心を痛め、そのために民が窮地に陥り、それで民がいてもたってもいられず、皆で絶食して何日も祈り続けるのです。彼らはもはや人の励ましやアドバイス程度ではとても立ち直ることができません。他に頼るところを失った人々が辿り着く祈りが断食なのです。
1. 断食への招き
主イエスさまは断食という習慣が偽善的だから止めなさいと戒めておられるのではありません。むしろ「断食するときは」と語られて、断食の習慣を勧めておられるご様子です。もちろん、それでは逆に断食という習慣を盛んにしないと熱意が神さまに伝わらない、と言われているのでもありません。
イエスさまは、最も深い悲しみを訴える祈りの道を人から取り上げなさるようなお方ではありません。ですから「断食をするときは」とお話になって、人が言いようもない悲しみや痛み、恐れや苦しみの只中に囚われているときに、神さまにすがる道を堂々残してくださっているのです。断食の習慣はそのように窮地に陥った聖徒たちに間違いなく祈りの道があることの証詞です。持って行き場のない悲しみや怒り、苦しみや恐れを私たちは祈りのうちに神さまの御前に差し出すことが許されている。私も今朝は皆さんに、断食の習慣についてお話しをするつもりはありません。しかし、私たちが追い詰められるほどに追い詰められたとき、その思いの限りを祈りに注ぎ出すように、主は今も私たちを招いておられることを覚えて新たな年の歩みを始めたいのです。
2. 断食と悔い改め
さて、イエスさまが断食についてお話になる直前に、祈りについて、特にその締めくくりが、赦し赦されることについての丁寧な御教えであったことを、思い起こして頂けるでしょうか(14〜15節)。赦しと、断食の祈りとを結びつけて思い巡らせることが肝要でしょう。人を赦す難しさもありますが、赦しを乞う難しさがあります。悔い改めの難しさです。イスラエルの民の歴史を振り返りますと、彼らは様々な場面で悔い改めの難しさを味わってきた民です。でもその中で彼らは断食をし、神さまの御前に絶望して祈ったのです。そのような歴史を抱えた群衆にイエスさまは「断食をするときは」と仰せになって彼らを切なる祈りに招き入れなさったのです。イエスさまは群衆に、そして今も私たちに最も悲しい嘆きを、苦しい祈りを、切なる悔い改めを神さまに献げるように招いておられるのです。この一年、私たちが教会として、またお互い一人一人が持って行き場のない苦悩の中に押し込められるとき、主の御前に泣き崩れて悔い改めた祈りから信仰の歩みが始まったことを思い起こして膝を築こうではありませんか。イエスさまのお招きに与らせて頂きましょう。
3. 偽善者たちの過ち
さて、主イエスがここで戒めておられるのは偽善者たちのあざとさではなく、断食の報いです。人々からの賞賛という形で報いを受けてしまった愚かさを諌めておられる。断食の祈りに辿り着くほどの深い悲しみや痛みは、人々の賞賛ごときで解決するはずもないのです。それどころかこの世にはもはや、私のこの悲しみ、苦しみ、悔いを癒し慰め、拭うことができるものは存在しない。だからこそ「あなたの父」が報いてくださるのです。断食の祈りに本当に報いることがおできになるのは天にいます私たちの父だけなのです。まさに「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」と仰せられた通り。断食の祈りに報いられる豊かさは天の御国にしかないのです。この年、私たちの教会が、そしてここに連なります私たち一人一人が、神さまから豊かに報われる経験を自らのものとする幸いな一年を歩むことができますように。その豊かさは、イエスさまが断食と呼ばれた、切なる祈りから始まるのです。
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