「善行(1):施しについて」[マタイ連講027]
【敬老感謝礼拝】
聖書:マタイ6章1〜4節
今朝からマタイの学びは6章に進みます。律法が当時のユダヤ人にとって彼らの生活全ての土台に据えられていた憲法のようなものであったように、次にイエスさまが取り上げなさるテーマも、彼らの生き方の土台にある大切なことで、それは「善行(ディカイオスネー)」、一般的には「正義、義」を意味することばですが、ここではユダヤ教特有の宗教用語で、「神さまの御前で宜しいとみなされ、神さまの御報いを得られる種類の正しい行為」を特に意味していました。それで6章1節では敢えて「善行」と訳されているのです。イエスさまがこれから説き明かされるのは、数々の善行の中から3つほど典型的なものについての御教えです。今朝から初めて、まずは施しについて、続けて祈りについて、そして3つ目に断食についてイエスさまの聖言に耳を傾けることになります。
今朝の本題は「施し」ですが、そこに入る前に今一つ心に留めておくべき大切なイメージがあります。それはこの18ヵ節に繰り返し出て来る「報い、報いる」という言葉です。聖書で報いについてお話がありますとき、私たちはその報いが何であるのかに思いを寄せるのではなく、報いてくださるお方に思いを寄せることが期待されています。それからもう一つ、ユダヤ人の間で神さまからの報い、と言われます時には主に天国で最終的に頂くものという希望がありました。天に宝を積むということは、全能の神さまが宝を積み上げてくださるのだから、全く心配せずに日常の善行に励めばよい、ということを意味しているのです。これらのことを踏まえながらイエスさまの語りかけに耳を傾けて参りましょう。今朝のテーマは「施し」です。2つの施しについて心を留めてイエスさまの御心に近づきたいと思います。
1. ラッパを鳴らす施し
第一に「ラッパを鳴らす施し」です。「施し」という日本語には少々上から目線の雰囲気があるようですが、イエスさまが「施しをする」というお話をなさっているときに使われる言葉は、至福の5つ目、マタイ5章7節の「あわれみ」ということばと同じで「真実の愛」が動機付けとなる立ち振る舞いを意味します。さてイエスさまは施しをすることについて、自分の前でラッパを吹いて施すようなことをしてはならない、と戒めなさいます。ラッパを吹くのは注目を集めるため。主は施しをするときに、周囲から注目を浴びるようにセッティングをすることを戒めておられるのです。実際「人にほめてもらおうと」人目につく場所で施す人々のことを「偽善者」と諌めておられます。ここでいう偽善者は、いわゆる本心では悪意があるのに、それを偽ってまるで善意で施しているかのように見せかける人であるよりは、たとい本心でも良いこと、正しいことをしようと思っていたとしても、それを人に見てもらい、称賛を受けようと望む人々を指しておられるのです。この章の冒頭で警戒されています「人に見せるために人前で」が施しの尊さを無に帰してしまうのです。
せっかくの施しが、善い行いが無駄になる、という残念極まりないことをイエスさまは「彼らはすでに自分の報いを受けている」と言い表しなさいました。この聖言はこれから数回繰り返されますから注目をするに値するおことばです。彼らが人に見られること、人から称賛を得て、人から褒美を受け取ることに関心と熱意を傾けたために、彼らはそこからすでに報いを、ご褒美を受けた、というイメージです。その瞬間、彼らの関心と熱意、希望も期待も天の父から離れてしまったのです。ラッパを鳴らす施しの悲劇です。
2. 隠された施し
さて、ラッパを鳴らす施しを非難するのは簡単かもしれません。けれどもいざ私たちの目の前に施しを求める人々が現れたときに、私たちがラッパを鳴らさず、人からほめられることを求めずにイエスさまが求めておられるような施しをすることが果たしてできるのでしょうか。イエスさまは知恵に溢れた手掛かりを与えてくださっています。「右の手がしていることを左の手に知られないように」隠された施し。これは必ずしもこそこそ施しなさい、とか必ず匿名でやりなさい、というような意味ではないでしょう。ただ、何か徹底して心掛けるところがあることは伝わって参ります。周囲の人々の視線に訴えることから解き放たれ、自分自身の視線からも解放されるように。そうなると施す者の視線はどこに向くのでしょうか。私たちの目線は目の前に現れて施しを求める人々に向けられるのです。そうするときに私たちの目に見えない天の父は、まさに隠れたところで、私たちの視界には入らないところで確かに私たちの手のわざをご覧になり、お喜びになり、結果天に宝が積まれるのです。
この福音書の締めくくり近く25章にイエスさまが最後の審判の様子を例え話のようにして説き明かしておられる箇所があります。
『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』
この例えに出てくる正しい人たちは、空腹な人を見ては食べ物を与え、飲み物を飲ませ、旅人には宿を貸し、裸な人には衣服を着せて、病む人を見舞い、投獄されて孤独な人を訪ねたのです。1ミリオン同行を求める人には2ミリオン付き添い、肌着を求める者には上着も持たせ、右の頬を打とうと怒り猛る者には、左も差し出せば収まるのかと宥めたのです。私たちの目には見えない天の父は、その全てはわたしにしたのです、と仰せになって、私たちを労い、報いてくださるのです。このように施すことを、神さまを信じると言うのです。このような手のわざを主イエスさまは「あなたの信仰があなたを救った」と言ってお喜びになるのです。
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