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「善行(2) :祈りについて」[マタイ連講028]

聖書:マタイ福音書6章5〜8節


今朝御読み致しましたところには「祈り」についての御教えが続きます。さらに先を読み進めますと、「主の祈り」の土台となるような祈りのことばをイエスさまは教えておられますし、そのさらに先には、3つ目の善行として「断食」が取り上げられています。当時の断食は外でもない、熱烈な祈りの形の一つでしたから、ある意味、今朝御読みしたところからしばらくの間、祈りについての語り掛け、ということになります。祈りの世界は実に広く深く、いくらでも掘り下げることができるけれども、その入り口に当たるところをイエスさまは、焦点を合わせるようにしてお話くださっています。

「祈り」というテーマは私たちにとっても身近なものではないかと感じます。クリスチャンになりましたお互いも日々の生活の節々で祈る習慣を身につけているように思います。あるいは、この戒めについては、私なりに及第点は取れているかもしれない、と期待している方もおられるかもしれません。もしそのような気持ちが心に沸いているならば、それは素晴らしい証しだと御名を崇めます。主も、弟子たちが自らの功績を嬉々として報告するとき、喜ぶ者とともにお喜びになられたようなご様子さえ伺えます。しかし、今朝のお言葉はそこが急所なのではありません。なかなか祈らない人々に、祈らない罪を指摘なさる語り掛けではなくて、むしろよく祈る聖徒たちに、祈る人々の罪について光を当てなさったのです。しかしこれはだからと言って祈りの専門的な御教えではなく、あくまで祈りの入り口の原理的なことを問うておられるのです。


神に喜ばれる善行だと言って祈りを大切にする人々に、主は「偽善者たちのようであってはいけません」と戒めなさいます。偽善者は「ヒュポクリテース」ということばの翻訳です。聖書の中でヒュポクリテースと言えば大概偽って善人を演じる罪人を指しますが、もともと古代ギリシア語では俳優のことをヒュポクリテースと呼んでいたそうです。俳優が自分でないキャラクターを、舞台で演じて、人々から称賛を得る、そんなイメージです。演じられている人物も、やっている「善行」も演技であって本物ではない、という意味合いです。偽善者/俳優が、大通りの角に立って、人に見えるように祈るのは「祈り」ではない、と戒めなさるのです。彼らは既に報いを受けている、祈りの答えを得ている。しかも祈りの答えを出しているのは神さまではなく、彼らを称賛する人々です。偽善者たちは神に献げる祈りを人々に届けているのです。


それではどのように祈ることが幸いなのか、主は「家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて…祈りなさい」と教えなさいます。これは一間の家屋の奥にある物置部屋のことで、一旦戸を閉めると光も入らない真っ暗な空間です。主は祈る人々に、祈りの世界は何も見えない世界、何も見えなくてよい世界だということを、身を以て感じるように招いておられるのではないでしょうか。そもそも私たちは何も見えないから祈るのではないでしょうか。しかしそのときに初めて、目には見えませんけれども隠れたところで見ておられる御父の尊さを知るのです。神さまに見て頂いている、その事実で祈りは十分なのです。何故ならばその神さまはあなたの天の父であられ、祈りに報いてくださるからです。「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」(マタイ7の11)。


私たちが次に問うのは「それでは、その闇の中で何を祈るのだろうか」ということではないでしょうか。イエスさまは続けて何を祈るのかについて、まず何がふさわしくないのか、それに続けて何が相応しいのか、説き明かしてくださいます。7〜8節には祈るときに、こうしてはいけません、と戒めなさり、9節から「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」とお話になられ、何を祈るのかを教えてくださっています。

異邦人と呼ばれる人々は彼らの神々がその祈りを聴いてくれるように、同じことばを繰り返すのです。翻して言えば、祈ることで私たちの想い願う方向に神々を動いてもらおうという試みなのです。それで神々に間違いなく伝わるように知らせるのです。神々に確実に知らせる、これが祈りの急所なのです。そしてイエスさまがしてはいけないと戒めておられるのがまさにその点です。乱暴な言い表し方ですが、神さまに知らせる必要などない、ということなのです。天の父は私たちの求める前から、すでに私たちの必要を知っておられるからだ、と諭しなさるのです。これは断じて、祈りの中で必要や願いを訴えることを禁じようとされたのではありません。祈り方に問題の根っこがあるのでなく、祈るときにどなたが聞いておられるのかが鍵なのです。私たちを取り囲む暗闇には私たちのことを目を離さずに耳を傾けてくださる御父がおられ、私たちの訴えや嘆き、つぶやきや疑念の一切をご存知でいてくださる。その上で、「あなたに報いてくださいます」とイエスさまは保証をしてくださっているのです。


それでは闇の中で、いよいよ何を祈るのでしょうか?それは明るみの中、人々に見える公衆の面前では、絶対に見せないこと、見せられないことです。暗闇で人の目には触れないから、自分自身も暗闇で何も見えないから、ようやく覆い隠してきたものを取り除いて、本当はこのことを祈りたかった、これを聞いて頂きたかったといって祈りの口が開かれるのです。

「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」イエスさまのこの聖言が私たちのうちに住み、主が私たちの歩みを、祈りの世界をますます豊かにして頂けますようにお祈り申し上げます。



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