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「和解の始まり、罪の告白」[創世記連講61]

聖書 創世記42章1〜9、18〜25


舞台はエジプトから一旦カナンの地に移ります。ヨセフの父ヤコブもまた飢饉に巻き込まれ、エジプトの穀物倉を頼って、息子たちを送り出します。

それで兄弟たちは皆ファラオの大臣ツァフェナテ・パネアハ【ヨセフ】の前にひれ伏します。ところがヨセフは自分が彼らの実の弟であることを明かすことはせず、むしろエジプトの様子を窺いにきたスパイ一味だと嫌疑をかけます。兄たちは必死に誤解を解こうと弁明をします。その中で、かつて命乞いをした弟に自分たちがした仕打ちに対して今自分たちは天罰を受けていると考え、彼らはそのときの悪事をツァフェナテ・パネアハの前で白状をし始めます。

伝道礼拝では主に、人がどのようにしてクリスチャンになるのかというお話をお伝えしています。今朝お読みしました場面には「救い」と言う経験を象徴する要点がいくつかあります。私たちは皆、その救いを経験してクリスチャンになります。このエピソードと私たちの救いの経験とを重ねて読みましょう。


1 いのちに関わる経験

まず始まりの場面ですが、ヤコブの悲痛な訴えから始まります。躊躇をする息子たちを追い立てるように、ヤコブは彼らに迫ります。穀物をエジプトから買い入れることができれば「私たちは生き延び、死なずに済むだろう」(2)と。これは生死に関わる問題であって、より豊かな生活を楽しもうとか、万が一のための保険に備えておこう、という次元の問題ではなかったのです。

私たちが経験する救いと、ヤコブ一族が直面している飢饉との間に共通する第一の要点、それはどちらも死活問題だというところなのです。ヤコブ一族の飢饉が死活問題だということは比較的分かり易いかもしれません。それでもヤコブの息子たちは初めのうちは悟れなかったのか、顔を見合わせるだけで何の行動にでようとも思わなかったようです。となれば、心の飢え渇きに私たちが如何に疎くて、危機感を実感しないとしても不思議はないかもしれません。しかし、私たちと神さまとの間が断絶していることがどれほど深刻なことなのか、聖書は強い聖言で私たちに迫ります。ちょうどヤコブが息子たちに「私たちは生き延び、死なずにすむだろう」と促したように、神さまは聖言を通して今日も私たちに迫っておられます。「悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか」(エゼキエル33:11)。私たちが救いを得るかどうかは、私たちの心にとって死活問題なのです。それほど深刻なこと。


2 自分と向き合う経験

さて、物語は一筋縄ではいきません。ヤコブの息子たちは食糧を買い求めるのですが、ツァフェナテ・パネアハ【ヨセフ】はとても冷ややかな対応をします。自分の正体を全く明かさないどころか、挙げ句の果てにはカナンから来た彼らのことをスパイだと嫌疑を掛ける始末です。どうしてヨセフがすぐに自分自身を明かさなかったのか詳しくは分かりませんが、ヨセフがそうしたことで何が起きたかはよく分かります。彼らは自ずと自分のこれまでの歩みと向き合うことになりました。皮肉にも彼らは自分たちの言葉で言うとおり「正直者」となって自分自身と向き合わなければならない経験をしています。

人が救いを得てクリスチャンとなるとき、だれしもが通過するところです。ヨセフが彼らを監獄に入れたことで兄たちは誠実に自分自身を振り返るときを得ます。私たちもまた自らを振り返るときが与えられるものです。そしてヨセフはここで自らが「神を恐れる者」だと言い表します。神さまの前に正直であることを兄たちに勧め、そうするときに神さまは決して彼らを滅ぼしなさらないことを保証します(19〜20節)。時間を掛けて誠実さをもって向き合うように、私たちもまた神さまに招かれているのです。


3 悔い改めから始まる経験

もう一点、兄弟再会の場面と私たちの救いの経験とが重なる点、それは罪の悔い改めです。(21〜22節)。「われわれは弟のことで罰を受けている」「彼の血の報いを受けている」。兄たちは自分たちの罪を突きつけられ、今の苦境がそれに対する罰だと受け止めて後悔をしています。この点で、この物語と私たちの救いの経験との間には重なるところと、大いに異なるところがあります。

重なる点は今お話したとおりで、私たちの救いは、ヨセフの兄たち同様、自分の罪深さに気付くところから始まるという点です。自分と向き合いながら、なるほど私は罪深いことに気付かされるのです。クリスチャンになった方々は皆それぞれ、自分なりにそこが折り返し地点になっています。そしてそれはただ単に過ちを犯したということではなくて、神さまの前に自分は罪人だという自覚に辿り着くのです。ここが私たちの救いの入り口です。

しかし、彼らは一つ大きな勘違いをしています。「我々は弟のことで罰を受けている」と嘆いていますが、これは彼らの思い違いなのです。神は報復を望まれません。ここが違います。

私たちの救いもまったく同じです。私たちは思い違いをしてはいけません。私たちが罪人だと暴露されるのは、むしろ私たちの恥と汚れが拭い去られ、赦され、そして滅びるどころか生きるため。神さまは今朝もヨセフの物語を通して私たちに迫り、また招いておられるのです。救いは私たちのたましいの死活問題だと迫りなさいます。顔を見合わせて躊躇して済まされることではないのです。正直者になって、誠実さを持って自分の姿と向き合うように招かれるのです。そして悔い改めるように招いておられます。そこには処罰や滅びの恐れはありません。主イエスさまの十字架によって如何なる罪も汚れも拭い去られる、忘れ去られるのです。お祈りを献げましょう。



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