「呼ばれた弟子たち、使徒たちは」マタイ連講[062]
聖 書:マタイ10章1〜15節
これまで圧倒的な御力を示されたイエスさまは「収穫は多いので、わたしに任せなさい」とは仰せにならず、「働き手を送ってくださるように祈りなさい」とお求めになり、この収穫の働きには人手が求められることを諭されました。
そして、さらに祈るように求められた弟子たちは、今や働き手となるように呼ばれているのです。私たちは、イエスさまが十二人の弟子たちを召されて、彼らを送り出しなさった出来事を学ぶことも然ること乍ら、この福音書に耳を傾けた初代教会の聖徒たちが自分たちの時代のこととして使徒たちの働きとも重ね、さらにその延長線上にある私たち自身の時代とも重ねて、今の時代に弟子たちとして生きることとは何かを読み取ることが求められているのです。
1懇ろな呼び出し
イエスさまの召し、弟子となるお招きは懇ろなものでした。何の惜しみもなく、「汚れた霊どもを制する権威をお授けになった」と最初から記されています。群衆や弟子たちは、イエスさまの偉大な御教えやみわざに大いに驚き、神さまを称え、また希望を見出したのです。ところが今、イエスさまはその一切を、お呼びになられた弟子たちにすべてお託しになられたのです。
ある説教者がこのような弟子たちの姿を「キリストの分身」と言い表しておりました。マルチン・ルターがやはり主にある兄弟姉妹たちのことを「小さなキリスト」と呼んだことが伝えられています。私たちがそれぞれ置かれた持ち場立場で、遣わされた場所で、小さなキリストとして輝くイメージがここに描かれているのです。イエスさまは惜しみなくそのためにすべての賜物を弟子たちにお託しになる御心なのです。これを懇ろな召し、懇ろな呼び出しと言わずにおられるでしょうか。
2節には弟子たちの名前が記録されています。ここにもまたイエスさまの懇ろな召しが生き生きと描かれています。イエスさまが直に招かれたシモン・ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネについては既に4章で読みました。アンデレはかつてバプテスマのヨハネの弟子。ヤコブとヨハネの兄弟は「ボアネルゲ(雷の子)」と呼ばれたようです。ピリポもペテロたちと同郷で、彼もイエスさまからお声を掛けて頂いた弟子です。ナタナエルという兄弟がいて、彼もまた弟子の一人と数えることができます。続けてトマスとマタイ。マタイは自分が取税人であったことを敢えて書き残しています。トマスは自分の思いに正直な人物のようです。デドモと呼ばれていて「双子」という意味です。それからアルパヨの子ヤコブとタダイが紹介されます。マルコ福音書はマタイのことを「アルパヨの子レビ」と紹介していて、専門家たちには、このヤコブはマタイの兄弟ではないか、と言う人もいます。タダイに至ってはルカ福音書のリストには別人ヤコブの子ユダの名前が記されています。熱心党のシモンはイエスさまのために熱心だったという意味のあだ名であったかもしれません。イスカリオテ・ユダについて今朝は詳しく述べることは控えましょう。彼らは皆、一人一人弟子として呼ばれ、使徒の名前のリストに挙げられ、収穫のための「働き手」として迎え入れられ、そして送り出されたのです。
2一途な使命
イエスさまは彼らを送り出すに当たって、最初に仰せになられたことはコインの裏表で、異邦人の方角にいくのではなく、イスラエルの同胞に向かいなさい、ということでした。この上なく一途な使命です。今集められた十二人の弟子たちのすべてをご覧になって、彼らの畑を割り当てなさったのです。まずはことばも心も通じ、愛する家族や友人たちの輪の中に行きなさい。やがて「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と彼らが押し出されるときがきます。でも今は主から与えられた割り当てられた畑地に的を絞って、しかし精一杯に刈り入れの働きに携わるように促されている弟子たちです。
そこで宣べ伝えるべきメッセージも一途で、「天の御国が近づいた」ということのみです。弟子たちの一挙手一投足が「天の御国が近づいた」ことを表す一途なメッセージなのです。
それからしばらく旅の身支度のことが語られています。一切持ち物を持たずに旅するように、しかも「ただで与えなさい」と最初に戒められています。これもまた一途な使命を果たす一環です。弟子たちは、すべての必要は十分に与えられる、という一途な信仰を証詞するように促されているのです。
3平安をもたらす存在
さらに町に入ったときには、宿泊場所を一軒の家に定めなさいという戒めが続きます。これもまた一途な信仰の表れだと言えます。しかし、この先にはさらに一歩深く福音を掘り下げた御教えが込められています。それはその家に訪れる平安です。弟子たちの存在は平安を齎す。これもまた福音が結ぶ果実です。弟子たちは平和を祈るように命じられているのではありません。至って普通に挨拶をして、その家が主の弟子たちを迎え入れる家ならば、自ずと平安がその家に訪れるのです。平安は福音を受け入れるところに自ずと訪れる果実なのです。祈って引き寄せる賜物ではありません。福音の受け入れられるところには、平安が訪れる。
イエスさまの呼び掛け、働き手となる召しにお応えする幸いを今朝私たちは垣間見ることが許されました。私たちは新しい一週、新しい月を迎え、お互いの持ち場立場に散り行きます。私たちはイエスさまに呼ばれ、懇ろに備えて頂き、一途に福音を宣べ伝えるように送り出されている。私たちは置かれた場所で神の平安をもたらす存在なのです。
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