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「十字架の足跡に従うように」棕櫚の聖日礼拝

聖書:Ⅰペテロ2:11〜25


主イエスさまの最後の1週間を間近で見届けたのは12人の弟子たちです。そのうちの一人が使徒ペテロです。福音書の記録によれば、ペテロは他の弟子たちと比べればよりイエスさまに近く、密かに尾行をするようにして、イエスさまが囚われて不当な裁判に掛けられて、その裁判の合間にあらゆる罵詈雑言を浴びせられ、鞭を打たれ、その一つ一つを見届けた弟子です。そして自分もまたいざとなるとイエスさまとの関わりを全否定してしまいます。

一度はイエスさまに背を向けてしまったペテロもよみがえられたイエスさまに御取扱いを受け、「わたしの羊を牧しなさい」と新たに使命を頂き、それからはペンテコステを経て生涯その召しに忠実に教会に仕える生涯を歩みました。この手紙はおそらく彼の晩年に書き送られたものだろうと思われます。一つの教会、あるいは一つの町の教会に宛てたというよりは、小アジア地域の代表的な教会全てにまるで一斉配信のようにして書き送られたものであるようです。彼らが救われたことの素晴らしさを思い起こさせるように、そして彼らが今置かれている苦境について正しい理解を持つように説き明かしています。

2章11節からペテロはいよいよ本題に入って行き、信仰のために迫害を受けていることについて説き明かします。それは決して彼らが悪い訳ではありません。また、それは予期せぬ事でもありません。しかし、それだからと言って私たちは諦めたり、厭世的になったり、ましてや投げやりになってしまうべきではなく、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」とペテロは励ましているのです。それでその「りっぱなふるまい、りっぱな行い」とは何か、ということについてしばらくペテロは説き明かすのですが、最初に取り上げられるキーワードは「従う」「従いなさい」ということです。立てられた権威に対して従うように、しもべの立場の人々は主人に従うように、3章に入って妻たちや夫たちも互いに従うように促されます。3章の中程で一旦締め括るようにして「最後に申します」といって、従うためには、互いに謙遜であるようにと指導がなされています。

 この流れの中で今朝は段落で言うと「しもべたち」への語り掛けのところを読ませて頂きました。古く新約聖書が記された時代も、ある程度人道的な、そして倫理的な価値感はありましたが、横暴で不当な扱いをする主人がしもべたちを散々痛めつける、という事の方が多かった時代です。そのような世界で、ペテロは聖徒たちに「服従しなさい」と勧告を致します。そうすることが神様の喜ばれる生き方だとペテロは記します。そして、いったん聴衆全体を見渡し(21節)、イエスさまご自身が服従の歩みを全うされて、私たちのために模範を示された事実を想起すうるように促します。今朝はイエスさまの通られたお苦しみ、十字架のお苦しみが私たちのための模範であったということについて、ペテロが示す真理を共に学びたいと導かれています。


1 罪との決別(22節)

何の模範であったのかについて一番最初に触れられていることは「罪との決別」です。22節「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした」という証言です。決してイエスさまだから可能であり、我々は弱い人間だからそうはうまくいかないのだなどと諦めてしまわないように、ペテロは強く訴えています。イエスさまの間近で全てを目撃して来たペテロが、そして十字架に至るまでを間近で目撃して来たペテロが、イエスさまのおことば、みわざ、そのお姿の全てを振り返って、最初に証詞したことが「罪を犯したことがなく、偽りがなかった」という点であることは意義深いことです。

 私たちがイエスさまについて行くというときに、罪や悪と決別をしているというところでまず倣うこと、私たちはお互い改めて受け止めようではありませんか。私が神様の御前にどうあるかということが問われているのです。イエスさまをひたすら模範として、その足跡を踏んでいくこと、これが第一です。


2 神の審判への信頼

23節には続けてイエスさまが神様の審判への信頼というところで模範を示されたことが記されています。ペテロは恐らくピラトやヘロデの前でのイエスさまの静かなお姿を思い起こしたのでしょう。著しく不当な裁判の只中で、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをなさらない。

 イエスさまがローマ当局の法廷で、ユダヤ人宗教家たちを原告に迎えて受けておられた裁判の只中でなさっていたのは「正しくさばかれる方にお任せになりました」という信頼でした。神様は正しく報われるということを単純に信頼する道がある、著しく不当な裁判と、その先にあるこの上なく苦しく屈辱的な十字架を目の当りにしても、この信頼で乗り越えることが許されたのだから、と足跡を残してくださったのです。


3 人々のいやし

24と25節でイエスさまが残して下さっている足跡は「いやしと回復」の道です。

罪の束縛からの解放の足跡を残されました。そして「義のために生きる」と記してありますように、人に生きる気力と目標を与えてくださるのがこの十字架のみわざです。新しいいのちが与えられ、そのいのちが豊かにされるのです。これは角度を変えていうならば、迷いからの帰還です。人があるべきところに帰ることが許される。イエスさまの十字架の功です。私たちがイエスさまの足跡に続いて自分の十字架を負うときに、人々に主に在る解放が齎され、新しく生きる希望が、気力が与えられ、主の御もとに戻るお手伝いが許される、そう期待してイエスさまの御後に続こうではありませんか。

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