「公正を実現する生き方」マタイ連講[025]
聖 書:マタイ5章38〜42節
説教題:
「目には目を、歯には歯を。」これもモーセの書に少なくとも三回繰り返し記されている律法ですから、聖書に親しんでいる方々にとっては馴染みのある律法であろうと想像します。世間では紀元前1800年代に発布されたバビロニアのハムラビ法典の一項目として知られています。報復や復讐を煽り立てるような法律ではなく、「等価報復」という原則を定めた極めてフェアな法律です。報復をするのは被った被害と同じ分だけに限ると言う掟で、この律法もまた神さまの素晴らしさを示す聖言の一つです。ちなみに旧約聖書の場合も、ハムラビ法典の場合も、本当に加害者の目や歯が奪われることはなかったそうです。
人の怒り、特に正義にかられた怒りは暴走しますとなかなか止めることができません。そのようなときに神さまはモーセを通して私たちにブレーキを掛けなさるのです。さて、イエスさまはここで再び「しかし」と告げなさり、この律法の中に込められている神さまの御心を明かしなさいます。その第一声が「悪い者に手向かってはいけません。」という戒めです。ここからイエスさまは4つの事柄を続けてお話になって神さまの公正の真意をお示しになります。
1右の頬を打たれる
イエスさまがまず取り上げなさったのは、右の頬を殴られたならばどうするかというケースです。右を打たれたら額面通り左の頬も打たれるがままにしなさい、という戒めではありません。無論状況によってはそうなることもあるでしょうけれども、イエスさまが告げなさっているのはそこにある神さまの御思いです。
人の顔を手の甲で打つと言うのはユダヤ人の間では侮辱的な行為で、傷害罪というよりも侮辱罪に問われる振る舞いだったそうです。ここで右の頬を打たれた人は怪我も然ることながら、尊厳を傷つけられたことになるというのです。人の尊厳は算数の足し算や引き算のように失ったり取り返したりできないものです。何よりもその尊厳は神さまのかたちとして造られたところに根拠がある、というのが聖書の御教えですから、決して軽んじるものではありません。主が言われたことで何か明瞭な意思表示になるのかは疑問です。ましてそれが加害者に伝わるかなど保証できません。ただ、頬を差し出すときに自らの心の動きを探ることはできます。一つ確かに頷けること、それは私たちに与えられた尊厳は、頬を打たれたくらいで失われるものではないという事実でしょう。他人からいかなる損害や傷害を被ったところで神さまから頂いた尊厳は私たちのうちに確かに留まり、燦然と輝いているのです。駆け引きを律法に基づいて執行せずとも、主イエスの弟子としての尊厳と威厳は、時に赦しの恵みとして現れ、時に忍耐強さとして輝き、また謙虚な品性としてこの世を恥じ入らせるのです。
2法廷で下着を奪われる
主イエスは続けて告訴して下着を取ろうとする人を描きます。この場面の鍵は「告訴して」というところにあります。つまり不当に盗んだり取り上げたりするのでなく、取り上げることを正当化しようという試みです。法的・社会的に、客観的に正しいとされる物差しで下着を取ろうというのです。奪われたくなければ私たちもまた法廷で戦えば宜しいのです。法律に基づいて、その下着を奪われないように抗告をすれば良いのです。イエスさまが群衆に「上着も取らせなさい」と告げられたとき、決して法の効力を否定なさったり、太っ腹になれと言われたりしたのではありません。主につき従って歩む弟子たちには、この世の物差しとは異なる正義があって、その正義を守るときに、結果この世の物差しを圧倒的に超越する、そのような世界をお見せになったのです。
31ミリオン歩くように強いられる
さて主はさらに1ミリオン行けと強いる者に対して、2ミリオン行くようにお話になります。このエピソードの鍵は歩かされる距離ではなくて「強いる」「強いられる」という点です。人の意思や権利を退けられる場面です。ボランティアの反対です。このようなことはローマの支配下では日常的にあったようです。主イエスは強いる者と同じ土俵で権利の駆け引きをなさっておられるのではありません。私たちに与えられた権利、私たちの意思を進んで他者のために生かす生き方があることを力強くお示しになられたのです。強いられた倍の距離を進んで歩く生き方、それでもなお自らの権利や意思が微塵も損なわれない生き様があることをお見せになられたのです。
4求める者へ
最後のイメージは今までのものと比べると色合いが少し異なります。これまではどちらかと言うと力や勢いのある者が私たちから奪おうと試みる、そんな印象がありました。しかし42節は「求める者」「借りようとするもの」です。求める者は物乞いの頼みを彷彿させるイメージだと専門家は解説をします。「借りようとする者」もまた、困っている人です。求める者が貧しさの中にいるのならば、恐らく見返りは期待できないでしょう。困っている人が借りにくるとしたらばきっと面倒に巻き込まれることでしょうそれでもイエスさまは群衆に告げなさるのです。「与えなさい」「背を向けてはいけません」。
神さまの公正さはちょうど天秤ばかりのバランスを取るように、いつでも釣り合いが取れている、それだけのことではなく、その天秤を包み込むような豊かさに本質があるのです。それだから求める者に応じて「与える」のです。助けを乞う者に背を向けないのです。私たちはこの圧倒的に豊かな神さまの備えの中で日々を歩むのです。その豊かさに安堵して頼るように招かれているのです。私たちが救われる、とはそのような豊かさに向けて救われるのです。この朝も主は私たちを招いておられます。
👈庭のシシトウが連日鈴なりです!
うちのシシトウ、結構ピリ辛なのが自慢。
と思ったら、「水不足などのストレスで
シシトウは辛くなる」そう。複雑な心境です。
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