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「全能の神を思い起こす」教会総会準備講壇④、創世記連講[70]

聖書:創世記47章27節〜48章7節


ヤコブの生涯が147年であったことがここで紹介されます。いよいよイスラエルにも死ぬ日が近づきます。いつ訪れるのか知らされずに迎える瞬間ですが、年齢を重ねたり、重い病を患ったり致しますと、そのときに備えようと心を用いたり致します。そしてそのような中で私たちはしばしば自分にとって最も尊いこと、大切なことは何かが探られ、浮き彫りにされてくるものです。

ヤコブはヨセフを呼び寄せて最期の願いを託します。手をももの下に入れる、という仕草がありますが、これもしばらく前アブラハムの生涯を学んだときに出てきたものでした。これは決して些細な願いではありません。埋葬をカナンの地でするということは、一族の長の亡骸をエジプトからカナンまで運ぶことを意味します。公なステートメントなのです。これはヤコブが自らの生きてきた年月を振り返って、最期に証詞をしようと望んだメッセージなのです。父祖アブラハムの辿った信仰の道、父イサクが歩んだ信仰の生涯に、自らの歩みを重ねる証詞です。アブラハムもイサクもそれぞれの時代に、各々の状況で信仰の応答をしました。先が見えない中で神に従うアブラハム、神の祝福を期待して失望することなく忍耐強く待ち望んだイサク、ヤコブはある意味父の信仰とは対照的な生き様を貫いてきました。自分から祝福を取りに行くような姿を学びました。同じ部族に属する近しい仲間たちであっても、そして何よりも誰に対しても同じように全能であられる神さまであっても、人はそれぞれ全く異なるところから、神さまを見出し、神さまに近づき、神さまと出会い、救い出されて人生にいのちを吹き込まれ、生きる年月が豊かにされるのです。

さて、イエスさまはその真理を神さま目線から説き明かしておられます。良い羊飼いは群れの羊が一匹いなくなると、他の羊を檻の中に入れて、失われた羊を見つけるまで探し回る。私たちはお互いの生きてきた道のりを分かち合ってなるほど皆全く異なるところから神様を探して見出したと語り合いますが、実のところ探しておられるのは神さまの方で、見出してくださるのも神さまなのです。ザアカイにもエマオに向かったクレオパたちにも主イエスはご自身の方から近づかれ、救いと希望を与えなさいました。アブラハム、イサク、そしてヤコブもまた同じ神経験をしたのです。全能の神が、その際限ない御力を尽くして私を探し、私を見出し、近づき、出会って救い出してくださった。

ですから私たちはあまり心配する必要はないのです。私たちはどうしても自分中心に物事を理解します。私が信仰を働かせて、思い切って覚悟を決めた。私が忍耐の限りを尽くして神さまからの祝福を、神さまの御報いを得るまで耐え抜いた。私が最後まで諦めずに格闘を続けた。神さまはそれらの証詞と告白を退けなさいません。しかし、私たちは自分を中心に物事を考えますから、なかなか安心できないのです。本当にこれで良いのだろうか。信仰を働かせた、とは言ったけれども本当に信じたことになっているのだろうか。私は力いっぱい格闘した、と言ったものの神さまの水準からしたらそんな程度で十分戦ったつもりか、なんて言われないだろうか?

でも主イエスによれば、そしてアブラハム、イサク、ヤコブの人生を観察する限り、探して見出しておられるのは神さまの方、近づいて出会ってくださっているのは神さまの方、共に歩み救いとなってくださっているのは神さまの方なのです。ですから、もしも私たちの心のうちに神さまを信じようか、いや信じられないという格闘が生じているとすれば、それは断じて独り相撲ではありません。神さまは既にその心のうちに近づき、悩みに寄り添ってくださっているのです。共に格闘をしてくださっているのです。信じて良いのかどうなのか混乱しているときに、神さまは夜空の星々、海岸の砂浜をお見せになったり、信じることができるように全能の御力を尽くして手掛かりを指し示してくださるのです。私たちは、今持ち合わせている理解力で、今心に響いている良心の語り掛けに応答して、信じますと告白することが幸いです。それは確かに私の覚悟、私たちの信仰なのですが、そしてそれは十分でないように感じるかもしれませんが、神さまから近づき、語り掛け、神さまが救い出そうと御手を差し出してくださっていることに気付かせて頂きましょう。そして全能の神さまに信頼して信仰の道に入ろうではありませんか。

その後ヨセフのもとにいよいよ父ヤコブが病床に伏せているとの知らせが届きます。それを聞いてヨセフはエジプトで生まれた二人の息子たちを連れて父親の元に向かいます。親から子に、次の世代に神さまの祝福を継承することの大切さをどれだけヤコブが大事にしているのかをヨセフはよく知っていたはずです。それでヨセフはエフライムとマナセを連れて祝福を受けるために病床に伏せている父ヤコブのもとに向かったのです。

ヤコブはヨセフの思いに十分に応えます。そして彼らのために祝福を祈るときに、ヤコブが開口一番に告げたこと、それが「全能の神」でした。

「全能の神はカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、仰せられた。『見よ、わたしはあなたに多くの子を与える。あなたを増やし、あなたを多くの民の群れとし、この地をあなたの後の子孫に永遠の所有地として与える。』」

ヤコブは「全能の神」を信じて従う生き方の幸いを、息子ヨセフに継承し、さらに次の世代を担うエフライムとマナセに託しているのです。全能の神が約束を与え、その約束を果たしてくださる方であること。その約束が果たされるために全能の御力をすべて注ぎ出してくださる事実。

私たちもまた教会総会を執り行おうとしています。これまでの歩みを振り返りながら、私たちもまた全能の神がどれだけ私たちによくしてくださったのかを振り返り、感謝するときを持ちましょう。そして私たちお互いのそれぞれの歩みの中でも振り返るときを持つならば、全能の父なる神が私たちの祝福のためになさるみわざを思い起こしては感謝しましょう。そしてますますこのお方に信頼するお互いでありましょう。



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