「全能の神にゆだねて」[創世記連講63]
聖書:創世記43章1〜15節
「さて、その地の飢饉は激しかった。」状況は全く猶予を許さないままです。人が大切な決断に踏み込むことを最後に阻むのは「恐れ」だと学びました。その他にも決断をためらわせる事情はいくらもあるでしょう。それでヤコブもしばらく足踏みをし、引きこもり、静かに暮らしていたのです。しかし、踏みとどまったところで問題は決して取り去られません。そこに依然として在り続けるのです。先週は罪の問題が物語に取り上げられていて、その罪と決別する決断についても考えましたが、罪の中にいるということもまたゆっくりと構えていられるほど、余裕のある現実ではないことをふと思い起こさせる聖言の書き出しでもあります。飢饉が人々の生命を脅かす激しいものであるように、罪が私たちの心を、魂を蝕む勢いは末恐ろしいものだということをふと思い起こさせます。
今朝お読みした段落はそのヤコブが決心するまでのいきさつ、そしてヤコブの決心そのものが記録されています。14節に心を留めたいと思います。
「全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」
1 決断をする必要
まずは、人は神さまの前にいつか決断をしなければならない、という現実です。和解の招きに応答するか否か、応答して神さまが備えておられる豊かな祝福を受けるか、その全てに背を向けるだけの理由があるのか。即答する恵みもあるでしょう。でも、すべての人があらゆる呼びかけに即答しているとは限りません。今お読みしているヤコブはそうとう躊躇しています。それだけ失うものが大きいのです。ただこの段落を読んで改めて私たちに突きつけられる真実、それはどれだけ「ためらっていても」厳しい飢饉は改善しないということです。
先日来私たちがこの物語から汲み取っています、罪の問題も全く同じです。神さまに悔い改めて和解に辿り着くか、様々な事情や理由や考えを巡らせて、決断に至るのを遅らせためらうのか。どれだけ長く待ちましても、私たちの罪の現実は寸分違わず、そこにあり続け、私たちを不幸の中に閉じ込めるのです。私たちから心の自由を奪い続ける。魂の飢え乾きはひどくなるばかりで、決して潤わされないし、満たされないままなのです。
それで神さまは折あるごとに私たちが決断に至るように励ましなさるのです。その決断のことを私たちは教会で「信仰」と呼んでいます。神さまに信頼する決断。恐れや躊躇、ためらいを越えて踏み出すように招かれてきた神さまにヤコブはとうとう「その方のところへ行きなさい」と決断します。
2決断を助けられる神
ただ、神さまは私たちがようやく決断に辿り着くまで私たちのことを放って置かれるのかというと断じてそうではありません。ヤコブは息子たちに再三励まされてきました。長男のルベンは、もしベニヤミンに何かあったら私の二人の息子のいのちをお父さんの手に委ねる、と訴えていました。ユダは自分自身のいのちを差し出して、ベニヤミンの保証人になるからと訴えています。どちらも人のことばがなし得る保証としてこれ以上重いものはないでしょう。神さまはそのようにしてヤコブのためらう思い、踏み出そうとしない頑なな心を次第に溶かしてくださったのです。そしてヤコブは決断に至ったのです。
神さまは今日も私たちが信仰の決断に踏み込めるように、決心がつくまで放っておかれるようなことはなさいません。様々な働きかけをしてくださいます。主にある兄弟姉妹たちの励ましや促しがあるでしょう。教会の交わりはその意味でも大切です。
それだけではありません。それ以上に確かな語り掛けが聖書の聖言です。私たちは聖書を読みながら、神さまが私たちに語り掛け、私たちを励まし、押し出して、信仰の働かせるように導いてくださいます。
そして神さまはご自身の御子のいのちを差し出されたのです。ルベンは自分の二人の息子のいのちを指差しながら、父ヤコブに迫りました。ユダは自分のいのちを指差しながら、保証を試みました。しかし神さまはイエスさまを十字架の死に追いやりなさって、確かにあなたの罪は贖われ、あなたのいのちは救われた、そう迫っておられるのです。これが神さまの促しです。
3決断の本質
さていよいよヤコブの決断のことばに目を留めて締めくくりましょう。ヤコブの決断の本質は「全能の神に対する信頼」さらに言えば「全能の神さまがその御力を用いて私たちを慈しんでくださる」ということに対する信頼です。問題や課題は、そのときそのときに変わります。それで決断の内容はその都度変わります。でも本質は変わりません。私が信じている神さまは全能であられる。おできにならないことが一つもないお方。これを信じる。そしてそのお方がこともあろうに、この私に慈しみをもって扱ってくださる。これを信じるのです。これがヤコブの決断の本質でした。
私たちの歩みはそのような神さまの憐れみによってここまで支えられてきたのではないでしょうか。私たちの教会は70年の間そのような慈しみを経験し、証詞してきたのではないでしょうか。今朝はインマヌエル綜合伝道団の創立記念礼拝です。群れの歴史を紐解けば、一本一本の糸は違う色合いや材質かもしれません。でもその本質はどれも「全能の神が私たちを憐れんでくださった」事実と、そのご慈愛に対する私たちの信仰の応答、その積み重ねではなかっただろうか、思いを巡らせるのです
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