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「倒れない家を築くように」総員伝道礼拝、マタイ福音書連講[048]

聖 書:マタイ7章24節〜8章1節


 イエスさまの譬え話には二人の大工と二軒の家が建っています。二人の大工はある意味とても似通っています。二人とも自分の家をしっかりと建てたのです。「自分の家」というだけあって、抜かりのないように建てたはず、というイメージです。そして建てられた家は同じようなところに建てられたのです。まるで並べて建てられたようです。嵐に見舞われたならば、どちらも同じだけの自然災害を被るのです。彼らの違いは一つだけ、賢い人は岩の上に家を建て、愚かな人は砂の上に家を建てたのです。その違いのために、一方の家は倒れることがなく、もう一方はひどい倒れ方をしてしまったのです。

 この譬え話の肝は倒れない家の一点です。怠惰でいい加減な仕事をするかで違いが出るという教訓でも、努力が十分だったのか否かが問われているのではありません。設計や技術に差があったかどうかも比べられていません。どちらもいっぱしの大工で、勤勉で、そして仕事をやり遂げたのです。聴衆として集まった人々の生き方をご覧になったイエスさまの洞察です。そこに集まった人々はいい加減に生きて来たのではない。一生懸命に生きて来たし、今もそうなのです。自分の力の限りを尽くしている。懸命に知恵を絞り、勉強を重ね、成功を喜び、失敗から学び生きているのです。イエスさまが「愚かな」と言われたとき、そのような人々の一生懸命を蔑まれたのではありません。むしろどちらの人も家を建てたのです。そしてそれだけに残念なのです。そのような失意と徒労に悲しむ人が起こらないことを御心に思われて、この譬え話を語っておられるのです。


1.災害は降りかかるもの

この譬えが私たちに思い起こさせるのは厳しい現実です。私たちが生きて行く中で嵐に遭遇する現実です。それだけに私たちは日々「試みにあわせないで、悪からお救いください」と祈るように教えてくださいました。賢い人の家にも愚かな人の家にも雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹き付けたのです。日々の生活の中で遭遇する困難や課題を指しているだけでなく、信仰者の真価を試すかのように訪れるかん難や迫害を指している、と読み取る人々もおります。確かに山上の説教の中でも迫害のことが取り上げられておりました。家は風に吹かれ、雨に打たれます。私たちの日々の歩みの中で、そしてやがては「その日」が訪れる、と学びましたとおり、そのときに私たちが一生を掛けて建てた家、私たちの人生がひどい様相で音を立てて崩れ落ちてしまっては残念でなりません。なんとしても建ち続けてほしいのです。


2.土台は人の行い、生き様

さて、この譬えの肝ですが、大工の家が倒れてしまったか、倒れなかったのか、その違いをもたらしたのはたった一つのこと「わたしのことばを聞いて行う。」イエスさまの周りに集まり、耳を傾けた人々は、聞くところまで辿り着きました。イエスさまはそこから先のことを問われているのです。聞いたことへの頷きや納得は私たちの次の一歩に導くものでなければならず、それらの希望や喜びもまた、私たちの次の行動の原動力になることが望まれているのです。私たちが聞いたことをそのまま行うこと、私たちが明日をどのように生きるのかが問われている譬えなのです。岩の上に家を建てるとは、御心を聞くこと、イエスさまの語られたことを聞き入れることと、私たちの生き方とが結び合わされることを描いているのです。私たちがその結びつきをこれからの日常の中で一つ一つ繋げていく毎に主は「賢い人」だとお喜びになるのです。


3.権威に基づいた生き方

イエスさまはそれ以上のことはお話になりません。ここでイエスさまのお話は完成です。マタイが私たちに最後に見せる光景は群衆の応答です。それが今朝の私たちへの最後の語り掛けです。描かれているのは群衆の驚きです。何故驚いたかといえば、それはイエスさまに権威があったというのです。当時の律法学者たち、宗教家たちは語り手としての権威を主張しません。彼らに自分には権威がないことをよく弁えているのです。それですから彼らは伝統を重んじ、これまでの歴史や慣習、偉大な先輩たちの残した言葉の数々に頼るのです。聴衆の人生まで背負えないことをよく弁えています。しかし、イエスさまははっきりと「わたしの」これらのことばを聞いて、それを行うなら、その家は倒れないと言われるのです。イエスさまのおことばには人の人生を背負う覚悟と、それだけの力とが込められていました。

人々はイエスさまの圧倒的な権威を目の当たりにして、驚いたのです。そして8章1節まで読み進めますと、主イエスさまが山を降りてこられると、大勢の群衆がイエスに従った。思い巡らしに値する光景です。様々な思いでイエスさまに従う人々を、マタイはその全てを呑み込むかのようにして、大勢の群衆がイエスに従った、と私たちに伝えているのです。動機や目的は何であれ、まずは耳を傾けるように、そして従い続けるように主イエスさまがお招きになっておられるのです。そして耳を傾ければイエスさまは愚かな人ではなく賢い人が家を建てるように、岩の上に家を建てなさい、と権威を持って招き続けなさるのです。


さらにもう一歩踏み込むならば、新約聖書の中でしばしば家は、人の歩みを表すと共に、教会を表すことばでもあります。「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と教会とが重なって読み取れる聖言でもあります。イエスさまは私たち一人一人に御声を掛けておられると同時に、金沢教会にも「岩の上に自分の家を建てた賢い人」であるように招いておられるのです。

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