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「信仰を生きる証詞」創世記連講[74]

聖書:創世記50章1〜14節


今朝お読みしました場面は一人の信仰者がその生涯を全うして召されるところです。これまでも埋葬の場面は何度か描かれてきましたが、ここまで克明に記録されているものはありません。明らかに創世記が最後に伝えたいメッセージが込められています。

ヤコブは生前、自らの埋葬について息子たちに厳しく指示を出していました。つまり、エジプトで召されるとしても、遺体はカナンの地、神さまが一族に約束して与えてくださった地に埋葬するように、ということでした。今風に言えばエンディングノートでしょうか。そこには自分が目指す人生観、価値観などが込められていて、人々にどのように覚えていてもらいたいかというところまで含まれていることが多いものです。ヨセフは兄弟たち、そして一族を挙げて父ヤコブの指示通りに埋葬をするように手筈を整えたのです。

1生き様を証詞するミイラ

最初に私たちの目に止まりますのはヨセフが父ヤコブの遺体をミイラにした、ということです。エジプトで大概ミイラにするのは独特の復活信仰に基づく宗教行事の一環でした。生ける真実の神さまに仕えるヤコブ一族は、エジプトの神話を信仰していたわけではないので、ファラオの復活信仰にあやかってミイラにしたわけではありません。医者が呼ばれたと書いてあるのは、これが宗教行事ではなくて医療行為だったことが分かります。エジプトからカナンの地に遺体を移動させる間に遺体が傷んでしまうことがないように、そのための処置をしたのだと思われます。

しかしヨセフが父ヤコブの遺体をミイラにしたのはそれだけのことだったのだろうか、と考えさせる聖言です。そのミイラは多くの人々に囲まれて、そして多くの人々の目に止まりながら粛々とエジプトを出て、カナンの地に上っていくのです。葬列に同伴する人々、また葬列が町や村を通過すれば、その一帯の住人たちも遺体を目の当たりにするのです。そして彼の信仰の証詞を知らされるのです。彼の遺体は、彼が歩んできた道のりの証詞となるのです。

今朝は場面こそヤコブの葬列ですが、決して私たちの最期をどのように迎えるか、というメッセージに終始するわけではありません。むしろいつ迎えるのか分からないそのときまで、私たちがお互いにどのように生き、どのような生き方を分かち合うのか、主にある兄弟姉妹お互いの信仰の歩みを理解し、受け入れ、慈しみ合う、そのような共同体を教会は目指しているのです。

2神の祝福を覗かせる最大級の葬儀

さてミイラも目に留まる特色ですが、何と言っても葬列から始まって埋葬までの一連の営みの荘厳さが読者の目を引きます。

ミイラにするために40日、その後も30日喪に服し、併せて70日エジプト中が泣き悲しんだとあります。それからヨセフは遺体をカナンに運びますが、ファラオの臣下、ヤコブの一族、さらに戦車と騎兵たちが加わります。「その一団は非常に大きなものであった」というのが創世記の公式記録です。

彼らは皆、これから執り行われる壮大な葬儀の目撃者となります。ゴレン・ハ・アダテという地名が葬儀の会場として記されています。地元の人々は7日間続いた壮大な葬儀を遠巻きに見ながら、それが格式あるエジプト式の葬儀であることに印象付けられている様子が伺えます。「たいへん立派で荘厳な哀悼の式」とはそういう意味です。

続いて今度はヤコブ一族によってマクペラの畑地に向かい、そこでヤコブが指示したとおりに彼を埋葬します。その一部始終を大勢のエジプト人が参列し、地元の人々の多くが目撃し、そしてヤコブの一族もまた目の当たりにしたのです。彼らが皆、ヤコブの生きた証詞に、この葬列の旅の中で、すべての人々が触れたのです。

少し話は飛びますがイエスさまの時代にナルドの香油を主に注いだ女性のエピソードがあります。無駄な行為だと非難した弟子たちとは対照的に主イエスはその行為を喜ばれ、福音が語られるところどこでも彼女の行為は記念として語られると言われたことがあります。

教会の集まりもまた神さまがお互いの信仰の歩みに光を当てなさり、お互いの信仰の力となるように、神さまを信じる生き方に招き入れ、あるいはそのような生き方を続けられるように私たちを励まし、そしてやがてはヤコブのように全うできるように私たちを押し出すのです。

3日常に戻る聖徒たちとエジプトへの帰還

もう一点だけ触れて締めくくりましょう。この段落はヨセフと兄弟たちがエジプトに戻るところで終わります。エジプトは決して彼らにとっては安住の地ではありません。それでも彼らはエジプトに戻るのです。そしてヨセフは大臣としての務めに戻り、兄弟たちはそれぞれ生業のある地に戻るのです。

ここにも私たちとの重なりを見出します。私たちもまた礼拝を献げて後、祝祷を受けてそれぞれの日常に戻っていきます。私たちの生活の場、同時に私たちの証の場なのです。神さまの祝福を証詞する舞台です。この礼拝の中で祝福を注いでくださった主が、それぞれの持ち場立場でこの一週も祝してくださるように祈って、期待をして私たちは日常に戻って参ります。この一週の間、私たちの歩みを通して一人でも多くの方々が主イエスさまの素晴らしさ、その主に従って歩む生き方の豊かさを見出され、加わりなさるように祈ります。



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