「信仰に入る格闘」マタイ福音書連講[067]
聖 書:マタイ11章7〜15節
「この人たちが行ってしまうと」。バプテスマのヨハネから送り出された弟子たちが、神さまのお約束を疑わないように、希望を続けるように励ましのメッセージを携えてイエスさまのもとを去ったところから今朝の物語は始まります。イエスさまの周りにはこれまでのやり取りを全て聞いていた群衆がまだおりまして、イエスさまは彼らにバプテスマのヨハネについて、そしてご自身との繋がりについてさらに説き明かされます。そうすることで、神の国の救いについてさらに説き明かしなさいます。
ヨハネの人となり、彼の生き様、その全てから神さまの救いを読み取ることができる、それが証詞です。ヨハネについて語りながらイエスさまは群衆に問い掛けなさいます。「あなたがたは何を見に行ったのですか」と。7〜9節に掛けて3回に渡って迫りなさいます。荒野でも宮殿でも、人々が見たのはヨハネです。彼は荒野では風に靡(なび)かず神さまの御心を語り続け、宮殿でも富や地位にほだされず神のことばを告げたのです。イエスさまは彼を「預言者よりもすぐれた者」である、と断言なさいます。聖言も引用して、生きとし生ける人々の中で、ヨハネより偉大な人は現れないと言われます。
ところが群衆が驚くのはその次の聖言です。「しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。」群衆は、イエスさまが今バプテスマのヨハネについてお話しではなく、天の御国についてのお話しをなさっているということに気付かされるのです。しかも天の御国の中での偉大さの順位についての説明ではなく、これまでとは全く異なる世界、しかも彼らの想像を越える次元で、そこに入る人々が尊ばれる世界が告げられているのです。
今に至るまで「天の御国は激しく攻められています」。これも群衆の耳に馴染まないメッセージでした。天の御国に入るときに生じる戦い、葛藤の激しさをイエスさまは描いておられます。この戦いはバプテスマのヨハネもイエスさまも戦いを続けて来られました。この戦いは他でもない罪との戦いです。罪や汚れ、この世の悪と闇との戦いです。それですからヨハネにしても、イエスさまに致しましても開口一番に語られた福音は「悔い改めなさい」から始まるのです。ヨハネは荒野で罪との決別を激しく語り、宮殿でも彼の戦いは続きました。彼は投獄され身動きこそは取れなくなりましたが、口を開けば悔い改めと、正義の実を結ぶ福音を語ったのです。
イエスさまも開口一番に「悔い改めなさい」と告げなさいました。またヨハネとは異なるかたちでご自身、罪と闘われました。悪魔の試みを聖言によって退けなさったイエスさまのお姿が4章に記録されています。誘惑に対する戦いが容易な筈がありません。しかし、イエスさまの本当の戦い、罪との本当の戦いは他でもない十字架での攻防です。ご自身の罪ではなく、すべての人の罪を背負われての戦いでした。ご自身のいのちを差し出されての戦い、激しく攻めなさり、三日目にいのちを得て勝ち取られた救いの道です。「激しく攻める者たちが天の御国を奪い取っています」と仰せになられましたが、誰よりも激しく、そして根底まで切り込んで戦い、御国を決定的に奪い取られたのは、十字架のイエスさま、よみがえられたイエスさまです。
どれほど決定的であったかといえば、群衆が、そして私たちを含めてすべての人が戦う戦い方が変わったのです。私たちはもはや自らのいのちを、罪の代価として差し出す戦いはしないのです。私たちの激しい戦いは自らの罪の落とし前をつける戦いではありません。その戦いは決定的に主イエスさまが勝利をしてくださった。私たちの戦いは受け入れる戦いです。自分の罪深さを認める戦いです。神さまの前に私は罪人だと頷くのです。そして、その私が天の御国に入るために、救いが備えられたことを受け入れる葛藤です。これまでの生き方や価値観が妨げるかもしれません。でも戦うのです。プライドや誇りが受け入れることを拒むでしょう。けれども激しく攻めるのです。自分は罪人であることを受け入れて悔い改めるのです。主イエスさまが救い主であられること、罪を赦す権威をお持ちであられることを受け入れて、信じるのです。
そして、ヨハネが語り、イエスさまが「天の御国が近づいた」とお告げになられた御国の到来は、それまでのように預言者たちがその「約束」を告げたものではなく、いよいよその約束が実現して御国が到来する、いや既に到来しているという宣言で、今はその約束が果たされるのを待つ時代ではなく、その約束を受け入れる時代に踏み入ったことの宣言なのです。群衆は「受け入れる思い」について問われています。受け入れる思い、受け入れる信仰を働かせたお互いは「キリスト・イエスにある者」と呼ばれ、罪と決別して正しく生きるものとされる福音のお約束です。咎めや汚れなどまとわりつく一切の重荷から解放され、本当の意味で自分らしく生きるものとされる福音の約束。闇の中を彷徨う不安から、神さまの放つ光に照らされて、神の御前に生きるものとされる福音の約束です。正しく生きることと、自分らしく生きることと、神の子どもとして生きることとが調和する生き方。イエスさまは「天の御国」というイメージを描きながら、私たちをお招きになっていらっしゃいます。そのお招きはこの朝も有効なのです。
今朝は伝道礼拝ですから、信仰に入ることに思いを寄せながらお話を進めて参りました。しかし、この語り掛けは先に信仰に入りましたお互いにとりましては一層力強いイエスさまからのお励ましではないでしょうか。激しく神の国を攻め取るように、神さまの恵みに対して貪欲に奪い取るように、罪や汚れ、誘惑や邪悪に対して戦うように私たちはこの一週も送り出されているのです。
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