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「人々の健全な和」マタイ連講023

聖 書:マタイ5章27〜32節


今朝は律法(モーセ)の書から二つの戒めをイエスさまが取り出された部分をお読みしました。一方は姦淫の禁止、もう一つは離婚の条件、とでもまとめられるでしょう。これらの戒めはイエスさまの時代、殊更に注目を集めた律法だったようです。福音書の中でも繰り返し、宗教家たちは姦淫をどうさばくのか、あるいは離婚の条件は何と何なのか、イエスさまに詰め寄ってきました。あるときなど姦淫の現場で捕らえられた女性をイエスさまの前に引き出して、その女性をどのように裁くのか、迫ったことさえありました。イエスさまの方からこの話題を取り上げなさることはあまりありません。そういう意味でも、山上の説教のこの部分は注目に値すると思います。

姦淫を禁じる戒めは、当時の宗教家たちだけでなく、現代の私たちにとりましても決して無視できない聖言の一つになっています。特に若い方々にとりましては自身のクリスチャンとしての品性が測られる聖言です。姦淫を犯すクリスチャンはそうやたらといる訳ではありませんが、情欲を抱いて女を見る者へのおことばになりますと、ハードルが一段と上がります。キリスト者は真っ向からこの聖言と向き合うことになります。「女性を見れば」となっていますが、男子の課題だと片付けず兄弟姉妹で共に向き合わなければならない戒めです。専門家たちはイエスさまのこの一連の御教えを「律法の内面化」と解説します。勿論、福音が人の内側に光を刺すのはその通りで、私たちは敏感に内側に照らされた光に応答することが肝要です。しかしイエスさまが律法を成就なさる、というときにはもう一歩深みに入って私たちの主にある交わり、信仰共同体の一致に光が届く戒めであることを学んでいるところです。

その意味で離縁の問題を一緒にお読みして聖言に耳を傾けるよう、導かれています。姦淫の問題とは人間関係の中で神さまが祝福される最も親密な結びつきを壊す罪だと言えます。アダムとエバが一つとなったことを神さまがこの上なく祝福なさいました。主イエスさまご自身は結婚をなさいませんでしたが、知人の結婚お慶びになり、その宴を最初のしるしをもって祝福されました。また新約時代の教会は、自分たちとイエスさまとの結びつきを花婿と花嫁に例えて描きました。その強調点は、何も混じることがない純真さでした。夫と妻の間柄の素晴らしさの第一の輝きはこの純真さです。姦淫はその麗しさを踏みにじる罪です。それだからこそ、イエスさまは続けて離縁の問題を並べて取り上げなさったのだ、と読み取れます。神さまが祝福された結びつきを人の事情でなかったことにする、これは極めて厳粛なことですし、モーセが離縁の条件を挙げたということを取り上げて、まるで神さまが離縁を良しとされている、などと断じて思い違いをしてはならない、という戒めです。「条件が揃えば離縁することができる」という当時の理解を覆し、「離縁はしないのが原則だ」と諭されたのです。これには宗教家たちも、弟子たちまでもが不服や戸惑いを見せています。


さて、姦淫の問題にもう一度戻り、右目や右手と引き換えに「ゲヘナに落ちる」顛末から守られるように、ということ教えに目を留めましょう。先週に続きゲヘナに落ちる痛みと恐怖が、私たちと隣り合わせになっています。勿論イエスさまは私たちが自らの身体を傷つけることを望んでおられる訳ではなく、ましてその欠損を盾になさって私たちが道徳的な振る舞いをするように脅しておられるのではありません。私たちが読み取るべきなのは、イエスさまの熱い思いへのお招き、何としても神さまが祝福された、この上なく親密で純粋な結びつきを何としても守ろうとなさる神さまの御思いの現れに、私たちも巻き込まれないかというお招きなのです。


姦淫とは、厳密には既に結婚をしている女性を奪って自分のものにする罪です。典型的な例がダビデとバテシェバの事件です。既に成り立っている最も麗しい世界を破壊する罪です。この破壊を赦さない断固とした神さまの御心に私たちも同じ熱心をもって加わるように招いておられるのです。右目や右の手を失ってでも、その純粋で祝された繋がりを守るように、という招きなのです。人の情欲や支配欲であれ、人の拵えた制度や書類であれ、この麗しい絆を破壊など断固として許さない、という神さまの御心をイエスさまは力強く宣告なさったのです。神さまは人が一つとなって麗しく輝くことを望んでおられるのです。


先ほど、私たちは聖書の中には花婿と花嫁のイメージが、時折イエスさまと教会の結びつきを描くのに用いられていることに触れました。イエスさまがここで示された神さまの御思いは、自ずとイエスさまと教会との関係にも重ねることができるでしょう。イエスさまが私たちのかしらであられ、私たちは主のからだとして互いに仕え合い、ぶどうの枝が幹から離れて枯れてしまわないように繋がり続ける祝福を読み取ることもできるでしょう。さらにもう一歩踏み込むならば、その教会の部分となるお互いが、同じようにひとつのからだとして保たれるように、さらにはその一致によって光を放ち、塩のように役割を果たし、ぶどうの木のように実を結ぶことが許されたならば、私たちはこの世にあって神さまの素晴らしさを証しすることになるのではないでしょうか。

「姦淫してはならない。」

強いおことばです。しかし、キリストのことばとして私たちのうちにこの聖言が住むように、神さまの熱い御思いとともに豊かに住むように、心に留めさせて頂きましょう。

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