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アドベント②「主イエスの誕生、私たちの長子」

聖 書:ロマ8章28〜39節


聖書の中には主イエスさまが人となられたことについて、つまりクリスマスの出来事について、イエスさまが長男/長子として誕生されたことにも大切な真理が込められている、と説き明かす聖言がいくつかあります。ローマ人への手紙を書き送りましたパウロもまたイエスさまのことを「長子」だと紹介しております(29節)。「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」イエスさまが長男ということが何を意味するのか、特に私たちにとって何を意味するのか、今朝は読み解いて参りたいと導かれています。


1 神の家族に加えられた私たち

「あらかじめ知っている人たち」とは前節を読みますと「神を愛するひとたち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たち」です。しかも神さまがその一人一人について既にご慈愛とお考えを抱いていらして、その神さまの御心に信仰を働かせて応答した人々が「神を愛するひとたち」、「あらかじめ知っている人たち」なのです。

さらに8章をさかのぼりますとパウロは、「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです…この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。」と記し、「アバ父、お父さん」とお呼びする間柄の父と子、家族のイメージを描いて「神を愛する人たち」を私たちに説き明かしています。その家族・親子のイメージを明確にするために、イエスさまが長子となるようにお定めになられたのです。私たちが神さまを愛する、神さまを信頼してつき従うというときにどのようにすることが正解なのか、模範として地上生涯を全うしてくださったのです。無防備な赤ん坊として誕生になられ、神さまとのお交わりをお喜びになられた少年時代、様々と生々しい誘惑を聖言によって退けなさり、苦しむ人々、飢え乾く人々、見下された人々、貧しい人々を顧みなさり、病を癒し、悪霊を追い出し、ツァラアトをきよめ、福音を説き明かしなさったのです。イエスさまがなさったことをその形や格好だけにこだわって追従しようとしますと、無理が生じますが、イエスさまが様々なしるしを行いなさる時にアバ父にお頼りになられたお姿は、私たちお兄さんに倣うことが大切です。死と向き合われるときも私たちの長子として死をお迎えになり、そしてイエスさまは私たちの長子としてよみがえられました。今朝お読みした中にもこのことが確認されています。パウロはイエスさまのことを「死んでくださった方」と紹介し、「いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが」と書き直しておりますのはそのことを意味しています。主イエスのよみがえりはキリスト・イエスならではの神業ではなく、私たちの長子として初めてよみがえられたのです。それだからこそ私たちは死の先についても希望を抱くのです。イエスさまは長子として一足先によみがえりの朝をお迎えになられ、今神の右の座に就いて、私たち一人一人について、彼は私の弟だ、彼女は私の妹だと仰せになって私たちのために執り成しておられるのです。そういう意味で私たちは神の家族に迎え入れられ、イエスさまを長子として、お頼りすべきお兄さんとして仰ぐように招かれているのです。クリスマスを迎えるにあたってイエスさまを改めて仰がせて頂こうではありませんか。


2 前のめりな神さまの愛

さて、今朝お読みしました聖言の中で見逃しようのない今ひとつの語り掛け、それは繰り返される「あらかじめ」ではないでしょうか。28節で紹介されている「神のご計画」を皮切りに「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました」、と重ねるように記されています。

神さまはまるで前のめりになっておられるかのように、ご自身の御思い、ご計画を前へ前へと推し進めなさる。神を愛する人たちのために前のめりになりなさり、長子イエスさまのために前のめりになりなさってご自身の御思いを表しなさった。そのような勢い溢れる神さまを一言で言い表すならば、「神が私たちの味方である」という聖言です。ここから怒涛のように神さまの御思いとみわざが、神の家族の子どもたちを包み込むように描かれています。すべてのものを惜しみなく与えてくださる父なる神さま、私たちの負い目すべてについて、「赦された」「もう忘れた」と太鼓判を押してくださる神さま。長子であられるイエスさまがさらに弁明をしてくださり、私たちに罪はないと断言してくださる恵み。そしてとうとうこの章のクライマクスで、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」と追い迫るようなパウロの筆に私たちは圧倒されます。艱難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、リストは続きます。そして、私たちを愛してくださった方によって「私たちは圧倒的な勝利者です」。それに続いて再びパウロは長いリストを挙げながら、神の愛から私たちを引き離すことができるものは存在しないと確信しています。神さまの私たちに対する前のめりな御思い、私たちの味方であるということは、言い換えれば私たちへの神さまの愛に他ならない、という福音に辿り着くのです。神さまを愛する人たちから始まったこの語り掛けですけれども、私たちの長子イエスさまを仰ぐときに、実はアバ父であられる神さまの際限のない愛が溢れていて、その中に私たちが置かれていることに気付かされるのです。


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