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アドベント①「主イエスと家族になる」マタイ福音書連講[077]

聖書:マタイ福音書12章45〜50節


いよいよ今年のアドベントが始まりました。クリスマスの日が来るまで神さまがどのような恵みを与えてくださるのか、それを期待しながら過ごす、それがクリスチャンのクリスマスの過ごし方です。クリスマスは一般世間でもよく親しまれ、地域や時代によって特別な日としてお祝いされています。西洋の国々では、クリスマスは家族が集まって七面鳥を食べたりする日になっています。ある意味、クリスマスと家族を大事にする心とは決して無縁ではありません。私たちプロテスタントはイエスさまの御聖誕に注目を致しますから、あまり意識をしないのですが、カトリック教会では父ヨセフや母マリアを含めて「聖家族」というイメージを大事に致します。言うまでもなくクリスマスの絵画の中心はイエスさまですが、それを踏まえて敢えて言うならば、イエスさまが真に人になられたということには、イエスさまが家族の一員としてお誕生になられたことも含まれているのです。イエスさまは家族の一人として生きなさったのです。父親や母親の暖かさや厳しさも、兄弟同士独自の絆や兄弟ならではの確執も、また親戚付き合いについてもイエスさまはご存じなのです。イエスさまがヨセフとマリアを両親とした家族にお生まれになられたというのは、クリスマスだけのお話ではなく、御生涯の間保たれた絆でした。今年のクリスマスはそこからスタートしようと導かれています。


家族というイメージは私たちの時代でもとても大きく複雑なテーマとなっています。家族の尊さ、有り難さが謳われ流一方、時代が荒ぶと共にそのイメージや現実にも様々な歪みが生じているのも悲しい事実です。万民がよい印象を抱くとは限らない、そのような時代をわきまえながらお話を進めなければなりません。それでも家族はそもそも、聖書によれば神さまが私たちに与えてくださった祝福の最たる表れであることは、間違いありません。確かに聖書に理想の家族は描かれていません。むしろ家族の中で様々な問題が生じます。しかし神さまは決して「家族」を諦めなさらない。私たちの時代は家族を諦めかけているように見えてなりません。確かに家庭内暴力や親たちの歪んだ振る舞いや子どもの非行などとても深刻です。ただ解決が難しいからと言って諦めてしまうことが近道であったり、ましてや正解であったりとすることは決して神さまが備えてくださっている幸いではなかろうと案じるのです。家族を諦めない神さまと共に私たちも、神さまが与えてくださった祝福の器として家族を尊ぶ理解を深めることが幸いです。


さて、イエスさまはまだ群衆や弟子たちにお話を続けておられたご様子です。そのときに、群衆から多分少し離れたところにイエスさまの母マリアと兄弟たちがいて、それに気付いた誰かがイエスさまに家族のことを知らせてくれたのです。ところがイエスさまは家族のリクエストにすぐにはお応えにならず、群衆に聞こえるように、声を掛けてくれた人に想定外のお返事をなさったのです。

「わたしの母、兄弟とはだれでしょうか。」


1 福音による新しい家族

イエスさまはすぐにご自身の手を伸ばしなさって、人々が弟子たちに注目するようになさいます。この文章を読む限りイエスさまは12弟子を指しておられるように読み取れます。イエスさまはご自身が「特別な間柄の家族」と呼べる人々は肉親だけではなくて、群衆の中にいる弟子たちもそのように迎え入れておられることをお示しになられたのです。この家族感こそ福音ならではの世界観です。私たちは今、イエスさまの家族だと手を伸ばして言われるような世界に生かされていることを覚えたいのです。そのイエスさまは「家族」が何かをご存じない方ではありません。ヨセフとマリアを親として生を受けたあの日から、ずっと包まれてきた家庭、十字架の場でも気遣われた。家族を尊ばれたイエスさまが弟子たちの方に、そして今日も教会に連なる兄弟姉妹に手を伸ばして、わたしの母、わたしの兄弟と呼んでくださっているのです。


2 家族に迎えられて

その家族の特色はただ一つ。「天におられるわたしの父のみこころを行う。」イエスさまはある意味「わたしの家族」に弟子たちを迎えたというよりは、わたしの父の家族に彼らを迎え入れたと言われているように読み取れます。主はご自身を筆頭に父なる神のみこころのとおりに歩もうと踏み出す人々を家族として迎えておられるのです。

果たして神の御心を悟り行える人がいるのだろうか。案ずる私たちにイエスさまは私たちにご自身をお示しになるのです。私たちと同じ家族の一員として、ご自身にできるならば弟子たちにもできる、とお励ましになって、弟子たちに手を伸ばして家族とお呼びになっておられるのです。


3 わたしと家族に

最後にもう一点、「だれでも」。弟子たちに差し出された手は彼らを他の人々と別格に扱うために伸ばされたのではなく、やがて群衆に向けて伸ばされ、一人一人に触れるように届いていくのです。そして「だれでも」イエスさまの家族に、いえイエスさまと家族になるように招かれているのです。この信仰は「こういうわけで、あなたがたは…神の家族なのです」と書き送る使徒パウロにも引き継がれ、今朝もその手は伸ばされています。クリスマスの日、私たちはイエスさまの御聖誕と、イエスさまの家族の誕生を目の当たりにしたのです。その延長線上でその家族に迎え入れられている私たちお互いであることを覚え、父なる神さまを改めて仰ぎ、お互い兄弟姉妹、恵みを分かち合い、重荷を分かち合い、地上生涯を継続致しましょう。



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