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「主イエスが舟に乗られる」神学院創立記念礼拝 マタイ連講[054]

聖書:マタイ8章18〜27節


カペナウムでのお働きを一先ず全うされたイエスさまは、弟子たちに命じてガリラヤ湖の向こう岸に渡る用意をさせなさいますが、その前にイエスさまに声を掛けた二人の人物について私たちは注目するように招かれました。どちらもイエスさまの弟子となる、ということが会話の中心にありました。彼らとの会話が終わってイエスさまは弟子たちが用意をしてくれた舟に、彼らとお乗りになります。すると湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった、と記されています。ここで「大荒れ」と訳されていることばは風を表すアネモスではなくて、地震を表すセイスモスなのです。弟子たちが舟の上で怯えたのは風に対してではなく大きく揺れ動く舟の揺れでいのちの危険を感じたのです。大荒れと大波の中でイエスさまは「眠っておられた」と記されています。先にイエスさまは「人の子には枕するところもありません」と語られましたが、 ここで大嵐の最中に枕しておられるのです。


西洋では教会が「舟」になぞらえられることがあります。そのイメージは、初代教会の頃からあったはずだ、と考える人々もいます。その場合引き合いになる舟は、ここに描かれている弟子たちの舟です。兄弟姉妹たちは教会の扉を潜ってベンチに座ると舟に乗船した気持ちで礼拝が始まるのを待つのです。

この舟を舞台に今朝の驚くべき出来事は繰り広げられます。この舟は弟子たちの舟です。弟子たちの舟にイエスさまが乗り込んでくださったのです。そしてその舟の中でぐっすりとお眠りになられたのです。イエスさまのご臨在について私たちに真理を指し示す場面ではないでしょうか。私たちが毎週集まり礼拝を献げ、祈りを献げるこの教会にイエスさまが乗船してくださり、そこで心地よくご臨在くださる絵画を、まるで見ているようです。


さて、この弟子たちの舟は魚を捕るには機能的であったかもしれませんが、客船のような乗り心地は期待できない。それで嵐に見舞われてしまえば、大荒れに苛まれるのです。それで先ほどの話に戻ります。弟子たちが何よりも苛まれたのは地震のような大きな揺れです。動いてしまっては困る大地が揺れる恐怖を、この弟子たちは船の上で、湖の真ん中で今見舞われて、そして苛まれ、怖がっているのです。初代教会に連なる兄弟姉妹たちは、この舟に乗っていると「大荒れ」に巻き込まれる、そのことをひしひしと実感するのです。私たちの教会もあの漁船宜しく、風や波に襲われたならば足元から揺れ動くのです。いのちの危険を感じるほどに揺れるのです。しかしその舟にはイエスさまが乗っておられる。イエスさまが枕をしておられるのです。

弟子たちは近寄って、イエスさまを起こして、訴えます。

「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます。」救ってください、私たちは滅んでしまいます、という意味です。この祈りこそ、私たちは日夜教会で献げられることを待ち望んでいる祈りではないでしょうか。滅びるに違いないと震え上がる人が、イエスさまに向かって救いを切に求める祈りがこの舟の上で献げられているのです。


さて、イエスさまはお目覚めになって「どうして怖がるのか。信仰の薄い者たち。」と告げなさいます。「どうして怖がるのか。」彼らが怖がるのは「信仰が薄い」から。信仰が薄い、というのは日本語独特の表現です。もともとは「小さい信仰の人たち」という言い回しで、マタイ福音書では4回登場するイエスさまのお言葉です。いずれ、もイエスさまの御力に御頼りすれば恐れたり、心配したりせずに平安と確信を保つことができたはず場面です。「小さな信仰の人たち」とはイエスさまにお頼りするその一歩を踏み出せないときの私たちです。足元が大きく揺れて、私たちの注目が共に乗船なさっているイエスさまから離れてしまうときに、私たちは「小さな信仰の人たち」と化すのです。それでも素晴らしいことに弟子たちはイエスさまの身元に駆け寄ります。そして滅びから救ってください、と切に求めたのです。「信仰の薄い者たち」とはイエスさまの弟子たちに対するお叱りのおことばでしょうか。イエスさまがはっきりと叱りつけなさったのは風と湖の方です。イエスさまに従おうと心に定め、舟に乗り込んだ弟子たちを足元から揺するものたちを主イエスは容赦無く権威をもって叱りつけ、そしてすっかり凪(なぎ)になったのです。

ところで、27節には「いったいこの方はどういう方なのだろうか」と驚く人々が描かれています。この一連の出来事の中にいた弟子たちの他に、この全てを「見ている人々」が想定されています。おそらくマタイはふとイエスさまの物語から目を離して、この福音書に耳を傾けている「人々」を見渡しているのではないか、と想像できます。マタイはこの「人々」を描きながら、そこに聴衆を、私たちを招き入れて語りかけているのです。そして私たちが見るべき方向に光を当てるのです。「風や湖までが言うことを聞く、この方」を仰ぎ見るように。その権威を弁え知るように。弟子たちの舟に乗船されたイエスさまが、今朝も私たちの教会にご臨在くださっていることを、私たちが思い起こすように、マタイを通して御霊なるお方は語り掛けておられるのです。私たちが教会に集う時、礼拝に参列するときに、殊更に私たちの足元が揺らぎ、大波や風が舟ごと吞み込もうとするときに、主イエスさまがともにおられる恵みをここで確かめるように招かれているのです。イエスさまはいつでも私たちに信仰を働かせるように励ましてくださいます。「これほどの信仰」と言われるのか「信仰の薄い人たち」と呼ばれるのか、いずれであれ私たちはイエスさまを信じるように招かれるのです。そしてその信仰を携えて新しい歩みに踏み出すように励まされるのです。

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