「主イエスがお出でになる道」マタイ連講[005]
聖書 マタイ3章1〜12節
3章は「そのころ」と記して新たな話題に移ります。主イエスさまが「ナザレ人と呼ばれ」るようになるくらいガリラヤのナザレで暮らしなさった、その頃ということで、それなりの年月が経っていることが暗示されています。マタイはイエスさまが公のご生涯に入りなさるまでを丁寧に追いながら私たちの心を整えます。神さまは気まぐれや思いつきで救いの道を開かれたのではなく、人類に救いが必要になったその瞬間から、確実な救いの道を備え、その間ずっと約束をなさり、いよいよその誓いを果たされたのです。神さまの私たちに対するご慈愛とご誠実の表れがメシアの誕生なのです。マタイは事ある毎に旧約聖書を紐解き、ここにも約束があった、この時点で神さまは私たちに誓いを立ててくださった。そして今まさに目の前で起きている出来事がその成就なのだ、と諭すのです。
今朝は「バプテスマのヨハネ」として知られている人物が現れますが、彼はまさに聖言の預言が生きて歩いているような男です。「ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて」いたと紹介されますが、ユダヤ人にとって「荒野」とはただの荒涼とした不毛な土地ではなく、神さまが奥義を示して新しいみわざをはじめなさる場所という意味合いがあるそうです。新約聖書の時代にも急進的なな宗教集団・政治集団が荒野に出て新しい勢力を立ち上げよう、荒野に行って神の啓示を受けよう、という塩梅です。人々は神の聖言を聞くためにユダヤの荒野に出て来て、そこにヨハネがいたのです。彼の出で立ちも特徴的で預言者エリヤの出で立ちと完全に被りますし、要するところバプテスマのヨハネは、これまで聖書の聖言が果たして来た役割をそのまま身に帯びて、声に乗せて人々の耳に届ける使命を担っているのです。まさに「荒野で叫ぶ者の声」なのです。そして彼の使命は、一言で言えばイザヤの預言にあるように「主の道を用意する」ことなのです。ヨハネを通して告げられる聖言に耳を傾けて、私たちもまた主と出会う備えをするように、今朝語り掛けられています。
ヨハネは開口一番「悔い改めなさい。天の御国が近づいた」と宣べ伝えています。「天の御国が近づいた」とは「神の国が近づいた」、さらに言えば神さまが近づいておられる、という告知なのです。しかし、そのためには道を用意する必要があるのです。アダムとエバが神さまの善意を疑い祝福を退けてしまって以来、人は自分自身の姿を恥じて誰にも見せることができなくなり、木の葉でも身にまとって隠すようになり、神さまから自らを隠すようになってしまったのです。ですから、神さまが近づかれるときに、そして神さまにお会いするには、用意が必要なのです。
その道を用意するとは、神さまを信じることの妨げとなるものを全て取り除くこと、「まっすぐに」することなのです。ヨハネはこれらの用意を一言で「悔い改めなさい」と迫っています。これはとても強いことばです。これは文字通り、悔いて改めることを求めています。これは反省とは違います。謝罪とも異なります。反省も謝罪も必要不可欠ですが、「改める」ところまで届かなければなりません。ヨハネが授けていたバプテスマは「悔いて改める」人々の信仰を証詞していたのです。
5〜6節をお読みしますと人々が地域一帯からヨハネのところに集まり、「自分の罪を告白し」てバプテスマを受けていたことが記録されています。ただヨハネはバプテスマを授けることで主の道が用意できた、とは考えていませんでした。そこがヨハネと彼のもとにやって来た宗教家たちとの間の違いだったことが分かります。宗教家たちは罪を告白したならば、これまでの功に基づいて神との出会い、己の救いは全うされると考えていました。何せ彼らはさかのぼればアブラハムの子孫なのです。しかしそうではないのです。罪の告白、その証詞としてのバプテスマはその後、どのような実を結ぶかで実質の有無、主の道が用意されたか否かが図られるのです。
人はその過去で神さまとの繋がりを図られるのではありません。父祖がアブラハムでも他の偉人でも、まむしでも石ころでもよいのです。神さまは、悔いた者がその後どのような実を結ぶのかを楽しみにされるのです。それでヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と迫るのです。果実はこれから実るものです。その果樹をどのように育て、剪定し、結実に至らせるのか、「主の道を用意」するとはふさわしい実を結ばせる歩みなのです。
実を結ばせることが如何に尊いことであり、神さまと出会うために期待されていることなのか、ヨハネは続けて二つの絵を描いて説き明かします。一つは斧の絵です。果樹の根元に置かれている斧です。「良い実を結ぶ」か否かによって伐採されるかどうかが決まります。そしてその斧を振るのが主イエスです。もう一枚の絵には箕が描かれています。この絵は、食べる麦もさることながら、籾殻が丁寧に掃き集められて「消えない火」で燃やされるところが強調されています。斧で伐採された枝も燃やされますし、これからお出でになる主も聖霊と火によってバプテスマを授けなさる、と紹介され、まっすぐな道を通って来られる主が如何に結実を望んでおられるのかが説き明かされます。
まっすぐにされた道を通ってお出でになる主、私たちと出会われる神さまは、この上なく公正なお方です。私たちの過去が何であったのかで私たちの罪の告白を計りなさることはありません。悔いたそのときから、私たちがどのように歩むのか、どのように改めるのか、どのような果実を結ぶのか、それだけを主は楽しみになさっておられるのです。私たちはそのようなイエスさまをこれから仰ぎ見、またそのイエスさまの聖言に耳を傾けて参ります。そして私たちは悔い改めに導かれていきます。豊かに実を結ぶ信仰告白へと招かれています。この一週間が私たちにとりましてそういう意味で実り豊かな週となりますようにお祈り申し上げます。
👈 今週は庭の野花をお届けします。
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