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「主の救いを待ち望む」創世記連講[73]

聖 書:創世記49章16〜33

説教題:「主の救いを待ち望む」


今日はちまたではバレンタインデーだと言われています。愛する人々、尊敬する人々にその思いを明かす、そういう意味では、ヤコブが自らの愛する息子たちを一人一人呼び寄せて最期のことばを授けるその心には息子たちへの豊かな慈愛が込められていたと言えるでしょう。

今朝はヤコブの息子たち残り六人へのことばを拝読しました。実は12人の息子たちへの祝福のことばの中には、彼らを色々な動物に例えた聖言が含まれています。ヤコブが想像力の限りを尽くして子どもたちへの祝福が少しでも彼らに生き生きと伝わるように、預言のことばを伝えている様子が伺えます。今朝は特にダンに対する祝福の預言に心を傾けるように導かれています。今朝お読み致しました中では最初の人物ですが、先週からの流れを踏まえれば七人目になります。彼は「民をさばく」ということが告げられています。この「さばく」ということばは「断罪する」「審判を下す」という意味の「さばく」ではなくて「弁護をする」という意味の「さばく」です。加えてダンは軍馬のかかとに咬みついて、またがる兵士を落馬させるようなまむしに例えられます。ダンは必ずしも強者ではないかもしれないけれども、敵を倒すことができるという前向きな預言となっているのです。さて、ここで今朝の聖言に辿り着きます。

「主よ、私はあなたの救いを待ち望む。」

急にヤコブは一息つくようにして、天を仰いで祈るように、ヤコブは語るのです。今ヤコブの思いにあるのは、ダンと彼の子孫だけではなくルベンに始まり、レアの子どもたち、ジルバやビルハを通して授かった子どもたち、そしてこれから祝福を告げるラケルの子どもたちを見渡して族長ヤコブは主を見上げたのです。私たちはヤコブのこの祈りに心を傾けながら、私たち自身が将来に対して抱く期待や希望、不安や恐れ、願いや要望をどこに向け、どのように表すことが幸いなのか見せて頂きたいのです。

1主に向けられる期待と願い

まず私たちがこの節を他の預言のことばと違うように感じますのは、ヤコブがこのところだけ目線を息子たちから離して神さまに向けているからではないでしょうか。ヤコブは息子たちを見て祝福を告げているのではない。彼らの業績や強み、欠けたところや足りないところを見て語っているわけではなく、神さまを仰いでいるのです。またヤコブは遠い未来を予知できる能力があるわけではなく、つまりヤコブは未来を見ているのではなくて、「主よ」と呼びかけて神さまを仰いで息子たち一人一人に祝福を告げていたのです。それが一連の預言の本質です。私たちもまた日々人々の間で日常の歩みを重ねます。そのような中で私たちが折あるごとに人でなく「主よ」と上を仰ぐことが許されたならば、信仰者としての特権を用いたことになるのです。

2神のみわざを救いととる

それからヤコブは続けて主から何を求めているのかをはっきりと言い表します。「あなたの救い」これがヤコブの望みを一言で言い表しています。息子たちの繁栄であれ、守られることであれ、誤った道に逸れないための戒めであれ、何であるにせよ、それは「神の救い」に結びつく、これがヤコブの理解でした。ヤコブの願いは一つだったと言えます。神さまが息子たち一人一人を救ってくださること。危険や罠からの救い、外敵や災害からの救い。罪や穢れからの救い。邪悪と暗黒からの救い。繁栄と結実への救い、誉れと栄誉への救い、正義と公正と慈愛に向けての救い。豊かないのちへの救い。子どもたちそれぞれに望むその内容は異なるかもしれません。しかし、そのいずれも「神さまの救い」であることをヤコブは弁えていたのです。

3そのみわざに期待する覚悟

さて締め括りましょう。「主よ、私はあなたの救いを待ち望む」これは待ち望む覚悟を告白した祈りでした。神さまのみわざを待つことを決めた祈りでした。この信仰を私たちはずっと創世記の中で学んで参りました。イサクにとってはレホボテがその応えでした。アブラハムにとってはイサクの誕生が待ち望んだ結実でした。さらにさかのぼればノアもまた方舟の中で回復のタイミングを待ち望んだ聖徒として数えることができるかもしれません。翻して言えば、神さまの救いを待ち望む、と告白しましても様々な待ち望み方があるようです。アブラハムのように試行錯誤を重ねながら、神さまを信じるところに辿り着く道のりがあります。イサクのようにひたすら忍耐を働かせ、レホボテまで黙々と進み続ける道のり。あるいはヤコブのように機会があれば自分から掴みに行こうとする果敢な道のり。どの道にも落とし穴があったり、欠けるところがあったり、限界があったりします。それでも神さまは彼らの「待ち望み」に応えて来られました。今、ヤコブは12人の息子たちを目の前に祝福の祈りを捧げています。預言のことばを告げています。12人12様の人生が広がっていこうとしているのです。彼らが歩もうとする道のりを先回りして確認することなどできません。また、彼らがちゃんと歩み切るまで見届けることもできません。ヤコブはそのとき、待ち望む信仰に辿り着いたのです。

結び

最後にヤコブは自らの埋葬について、マクペラの畑地を指定しました。これはヤコブの信仰、待ち望みの集大成です。必ず祝福の地に返してくださる。創世記は神さまの祝福を待ち望む信仰を握って息絶える聖徒の姿を証詞して締め括るのです。そして私たちがその待ち望みの信仰を引き継ぐように招くのです。



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