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「主の御心が成る」マタイ福音書連講[050]

聖 書:マタイ8章1〜4節


イエスさまが山上の説教を語られて後、山から降りて来られると、多くの人々が続けてイエスさまに従って来ました。イエスさまと弟子たちはその後カペナウムという町に向かわれたご様子です。その町に入る前に一人の人がイエスさまの御前に現れたのです。彼はツァラアトに冒されていのです。症状や感染力が恐れられていましたし、それに加えて旧約時代には時折神さまからの裁きの象徴とも関連があった病でした。それで、この病に冒されたならば、完治するまで他の人と一緒に暮らすことが許されず、町の外に出ないとならなかったのです。ツァラアトを患っていますから群衆と一緒に行動は取れなかったと思われます。人に近づき過ぎないように、それでも彼はイエスさまの御許に辿り着き、そして「イエスに向かってひれ伏し」たのです。


ツァラアトを患うこの人はイエスさまについて信じていることを一言で言い表します。

「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」

イエスさまへのお問い合わせでもなく、お願いでもありませんでした。この男性の願い、その求めの心底に「おできになります」という信頼が据えられていたことをマタイは見落とさずに記録したのです。彼の信仰告白にイエスさまは惜しみなくお応えになります。「わたしの心だ。きよくなれ。」

わたしはあなたに関心がある。あなたにわたしの力を存分に使おう。私の心だ。あなたの幸いを望んでいる。あなたを祝福することが私の心だ。そうイエスさまはお応えになられたのです。人がイエスさまのみもとに来るときに、イエスさまのお心はこれ一つなのです。イエスさまは今朝もまた私たち一人一人にそう語り掛けてくださっています。その上で私たちの祈りに、願いに、告白に惜しみなくお応えくださるお方です。

ところでこの癒しの大きな特色は何と言いましてもこの男性が患っていた病そのもの、ツァラアトです。この病は癒えるものではなくきよめられるもの。この病はからだに絡みつく病原であるだけでなく、人の心や霊魂、その人の本質にまで及ぶ病だと考えられていたのです。きよくするという特別な言い方にはそのような意味合いが込められていました。翻せば、イエスさまの癒し、救いは表面的な問題だけではなく、人の本質にまで及ぶものなのだと、この癒しは私たちに示しているということができます。この男が一番乗りで描かれているのも、ただ単に町の外で暮らすことを強いられていたために、町の中の人々よりも却って先にイエスさまの御許に行けることになった、という恵みの逆転を表しただけのことではなくて、福音がもたらす癒しが、表面的な癒しや回復にとどまるものではなくて、人の本質、問題の核心に触れる癒しだということを最初にお示しになるためだった、と読み取ることができます。


さて、イエスさまはきよめられた彼にさらに指示をお出しになっておられます。4節、だれにも話さないよう気をつけること、町の祭司に患部が癒えたことを見せるように、そしてモーセが命じたささげ物をするように。現代人、日本人の私たちには少々分かりにくい指示かもしれません。

だれにも話さないようにとは、この癒された男性のため、そして町の人々のためでした。ツァラアトが癒えたかどうかを、祭司たちが専門的に見極めるまで正式には認められません。癒された彼が糠喜びして町に駆け込み、自分の家族の家に久しぶりに飛び込んでしまったりしたなら大変な騒動です。それで気をつけるようにお話になられたのです。

それから祭司に見せること、そしてモーセが命じたささげ物をすること。これには少なくとも二つの意味が込められていると考えられます。第一に、神さまから恵みを頂いたときには、神さまに感謝するように、という大切な営みです。求めなさい、そう招かれて祈りの手を上げ続けた私たちに、神さまがお約束通りに与え、戸を開いてくださったときに、感謝をすることを忘れてはならないのです。感謝を献げるときに人は、改めて神さまが生きておられることを確認し、神さまの素晴らしさを見出すのです。感謝を怠りますと、私たちは神さまが与えてくださった祈りの応えに気づきもしないでやり過ごしてしまうことがあり得る。そういう意味で祭司のところに行って神さまにささげ物をすることは意義深いことです。


しかし、ここでイエスさまがさらに指示をなさったのは、この男性が町の人々の中に戻っていくために必要な手順だったのです。晴れて共同体に、家族に戻る道筋をイエスさまは敷いてくださったのです。ツァラアトの癒しは、患部が癒えたところで終わるのではなく、共同体にその人が戻るところで晴れて完成するのです。人は共同体の中で生き、生かされるように神さまはお造りになられました。「人がひとりでいるのは良くない」アダムをお造りになられた神さまが仰せられた聖言は、天地創造以来ずっと貫かれています。人が独りでいるのはあらゆる次元で良くない事なのです。

イエスさまが昇天されてまもなくペンテコステの朝、聖霊が弟子たちの上に臨み、彼らは力を得て福音を告げ知らせ、まもなく信仰共同体、教会が誕生します。この福音書が教会の中で読まれるようになって、兄弟姉妹たちは改めてツァラアトの記事を拝読し、自分自身とツァラアトから回復をしたこの男性を重ねて読んだのではないでしょうか。そしてこの男が自分が属している共同体に戻っていくように道を敷かれたイエスさまが、今や救われた人々のために教会へ加わり保たれる道筋を敷いてくださっている恵みを感謝したのではないだろうか、と想像するのです。私たちもまた信仰共同体に導かれ、その中に保たれている摂理を感謝するものです。



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