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「世の光として輝く」マタイ連講020

聖書:マタイ5章13〜16節


世の光という例えは、今もそうですが主イエスの時代にもよく用いられたイメージだったようです。何よりも使徒ヨハネは、イエスさまがご自身のことを「わたしは世の光です」と仰せになられたことを記録しています。地の塩も然ることながら、世の光もまた人々にとっての理想を描くイメージだと言えます。


1. 今の時代に光り輝く世の光

「世」ということばはもともとコスモスということばの翻訳です。もともとは「宇宙」ですとか「世界」、少し抽象的な意味としては「秩序」というような広がりのある意味のことばです。「世の光」とはそのように広大な世界を照らす光がイメージされています。私たちの生活空間は言うまでもなく、それを越えて広がっていく奥深さ、幅広さが込められている「世」です。

さらにマタイ福音書の中でコスモスは神さまが御創りになられた世界の全容という意味合いが含まれます。ただ、同時にこの世は闇と罪に覆われていて、人々につまずきを与える、と戒めておられます。それだけにこの世に向けて福音を伝えなければいけない、それがコスモスの表す「世」なのです。それこそ小高い丘に上って見渡して、地平線の向こうに思いを馳せながら、この光がどこまで届くのか、想像をしてみなさいと迫っておられるのです。


2. 隠せない輝き「世の光」

主イエスさまは「あなたがたは世の光です」と言われ、つき従う人々を山の上に建てられた町に譬えなさいました。その心は、そんなに目立つところに据えられた町はどうしたって人の目に留まる、山の高いところで街明かりを灯すならば、誰しもその町を見出すだろうという例えです。

この群衆に加わる人々は皆、イエスさまにつき従うときに、この世の様々なきらめきや、点滅や、明かりがちらつく中で隠れ様のない光を放つのです。それで多くの人々が惑わされ、足をすくわれ、つまずくのです。その現実を主はご覧になりながら、同時にご自身につき従う群衆をご覧になり、彼らにこの世にあってあなたがたが光です、と告げなさったのです。

「隠れることができません」と仰せになられたとき、あるいは「あなたは隠れようとはしていませんか」と問うておられるのかもしれません。報われないからでしょうか、反感を買うからでしょうか、それこそ迫害を受けるかもしれません。それでも主は確かなこととして、私たちの放つ光は必ずや人々の目に届く、と断言されたのです。


3. 全ての人を照らす「世の光」

さらに主は、明かりは隠れないだけでなく、隠さないでしょう、と迫りなさいます。この升というのは、穀物を測るための大きなもので、当時の家庭であれば、一家に一袋はあった代物のようです。イエスさまの譬えを耳にして皆、それぞれに応答したことでしょう。何でそんなことをするのか、と。一般家庭に備わっているランプは、手のひらよりもひと回り小さく、粘土を焼いて作ったような器です。その器の一部が指でつぼめたように狭まっていて、器に入れた油はそのつぼんだところに火をつけると、少しずつ燃えて明かりを灯すようです。そんなに明るくなるもののようには思えません。ですから、せっかく火を灯したランプに大きな升の袋を被せるのは実に愚かなことなのです。家にランプの光がなければ、その家は次の夜明けまで闇の中、動き回らないように大人しくしているほかありません。でも明かりが灯っているのなら、その家の夜は見違えるほど変わり、安心して動き回り、快活な夕べを過ごせます。明かりがあるのにそれを升の下に隠すなど、くどいようですが意味が分からない。それと同じくらい、主につき従う人々の放つ光を升の下に隠してしまう意味が分からないだろう、という迫りなのです。

もちろんこれは譬え話ですから、現実よりかは少々単純になっています。人は誰しも暗がりの中にいることを不自由で、不安に感じるものです。ですからそのようなときには格別に光が必要だと感じるものです。だから升の下に隠すことが愚かしいことだと皆思うのです。しかし、イエスさまにつき従う人々が放つ光について、この世の人々はどれだけ、その光を必要だと自覚しているだろうか、という疑問が残ります。むしろ人々はある程度薄暗い程度の明かりの方が心地よく感じていて、光に照らされることを疎ましくさえ感じるのではないだろうか。

しかし主は譲ることなくお話を続けなさいます。世が闇に馴染んでしまっている現実を越えて、それでも人には光が必要なのだということをご存じで、その必要にどうしても光を届けようと揺るがない御心を貫かれ、つき従う人々にも、ご自身の御思いと福音の使命に加わるように招かれたのです。


4. 良い行いに表れる「世の光」

世の光、「あなたがたの光を輝かせなさい」とは「あなたがたの良い行いだ」と言われます。私たちの立ち振る舞いや放つことばが光として輝き、人々を照らすのだ、とイエスさまは諭されます。その光が人々にどのように働きかけるのかは私たちには分かりません。ただ主の幻は、人々が光に正しく応じるならば「天におられるあなたがたの父」を崇めるようになる、という世界なのです。私たちが地の塩、世の光として、精一杯役割を果たしつつ、主が見据えておられる幻を私たちも同じように仰いで、人々が神さまを見出し、そこに喜びを得ること、世の人々が闇と罪から解放されて、真理を見出し、慈愛を知り、いのちを豊かに生きるようになることを待ち望むように、招かれているのです。


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