「マナセ(忘れさせる恵み)とエフライム(結実の約束)」[創世記連講60]
聖書 創世記41:37〜57
37節からはしばらくファラオがいかにヨセフを信頼し、彼にほぼ全てを譲っている場面が続きます。彼は自分自身よりも神の霊が宿る人の方が治める賜物に長けていることを悟ったのです。ヨセフはファラオの指輪を自らの指にはめ、ファラオの上着を羽織り、彼の首飾りを身につけ、ファラオと並ぶ戦車に乗り、あっという間に人民の敬意を手の内に治めます。ヨセフの政治的な立ち位置だけでなく、彼のプライベートまでお世話をします。彼にエジプト人の名前を与え、その頃にファラオの計らいで家族を始めることになります。花嫁の名前はアセナテ(私はあなたのものです)というロマンチックな意味、家柄は祭司職。エジプト的には由緒ある背景です。つまり、ファラオは神の霊が宿る人ヨセフに、エジプト王国が提供できる最大のもてなしで家庭環境を用意したのです。
でもこの物語が私たちに伝えようとしておりますのは、そこではありません。ファラオの寛大な計らいは比較対象のための物差しに過ぎません。これがヨセフ物語の語り方なのです。私たちが確かだ、偉大だ、信頼できる、太刀打ちできない、そう感じる様々な物差しを持ち出して、ヨセフを計り、いつもその後でヨセフに伴われる神さまを静かに仰いで、神さまが私たちに注ごうと望んでおられる恵みと祝福の圧倒的な豊かさを見せつけるのです。エジプト全土見渡して、ヨセフに対するファラオの待遇を羨まない人はまずいないでしょう。そしてまるで読者に迫るように、これ以上にヨセフを満ち足らせるような恵みや祝福はあるだろうか、と問いかけるのです。ヨセフに二人の子どもが授かったことが知らされるのがそのタイミングなのです。
文字通り計り知れない豊作が七年続く間に、神さまはヨセフに二人の息子たちマナセとエフライムをお授けになられたのです。ヨセフは神さまが授けてくださった二人の息子たちが何を意味しているのかを悟り、彼らの名前の中にその御心を込めました。ヨセフが授かった二人の息子たちの名前に心を傾け、そこに込められている神さまの御心に私たちの思いを寄せましょう。
1マナセ:忘れさせてくださる神さま
マナセ、とは「忘れさせる」という意味です。マナセの誕生によって、神さまがヨセフのすべての労苦と父の家のすべてのことを忘れさせてくださった、と彼は証詞をしたのです。忘れさせてくださる神の恵みを味わったのです。
確かにファラオの与えた莫大な栄誉と権威と豊かな生活は、ヨセフがこれまで受けた不当な蔑みや、剥奪された自由と権利を償ってあまりあるものでした。しかし神さまはその全て、さらに言えばエジプトに下るさらに前から、彼の父の家で始まっていた彼への不当な扱いの全てを忘れさせる恵みを賜わったのです。ファラオは栄誉や富をもって大いに償い報いてくれたかもしれません。しかし神さまは新しいいのちをもって、これまでの痛みと悲しみを拭ってくださったのです。このとき以来人は神さまが拭い去ってくださる方であることを深く知り、そのみわざを祈り求め、確実に経験をしてきました。
イエスさまは、十字架で流されたご自身の血潮といのちによって私たちの罪をすべて忘れさせる救いのみわざを果たされます。そして黙示録には主にある聖徒たちがやがて天で本当に報われる様子が描かれています。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある…神は彼らの目から涙をことごとくぬぐ
い取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。』」(黙示録21:3〜4)
最後の最後まで、主は私たちのかつての悲しみ、痛み、罪と闇、神さまの祝福に似つかわしくないすべてを忘れさせてくださる方なのです。
2 結実のエフライム
さて、神さまはヨセフの過去を償ってくださっただけでなく、ヨセフの未来についても素晴らしいプレゼントを用意されました。それが二人目の息子でした。エフライム「実を結ぶ」ということば<ファラー>から転じて、「肥沃な土地」「牧草地」の意味だそうです。ヨセフはこう説明します。
「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」(52節)。
実りが目方で測ることができないくらいの豊作であった七年の間に与えられた二人目の男の子でした。まさにエフライム。神さまはまるでエジプト全土をこれ以上ない規模にまで豊かになさって、改めてヨセフに向き直りなさり、これに優る結実をあなたに約束する、といわんばかりにエフライムを与えなさったのです。ふとイエスさまのことを思い起こします。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた…この方は恵みとまことに満ちておられた…私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1章)。やがて主はぶどうの木の例え話をなさり、ご自身とつながっている限り人は「実を結び、その実が残るようになる」とお約束になられました。また他の場面でイエスさまはご自身の十字架について「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は…死ぬなら、豊かな実を結びます」と仰せになりました(同12章)。
ヨセフに話を戻しましょう。ヨセフがここで「私の苦しみの地で」と述べています通り、これから末恐ろしい飢饉が七年訪れます。その飢饉に備えて、ファラオがヨセフに与えたすべてのものはヨセフが円滑に業務を果たすための道具になりました。しかし神さまが賜ったものは、ヨセフの手のわざに対して豊かな結実をもたらすことになります。まさにエフライムのお約束をこれから七年の飢饉の中で果たして行かれます。そしてさらにその先に結実の豊かさは続くのです。神の豊かさは無限です。
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