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「クリスマスの日に…」クリスマス礼拝

聖書: マタイ福音書2章1〜12節


クリスマスはイエスさまの誕生を記念する日です。ナザレのイエスさまが何月何日に誕生されたのか、正確な年月日は分からないままです。ただ、教会の暦のどこかでイエスさまが誕生されたことをお祝いする日を設けることが信仰の助けになるだろう、と考えられて古くから12月25日とその周辺で祝うようになりました。今朝は教会に連なる私たちがクリスマスの日をどのような心と思いで過ごすことが相応しいのか、お読みしたマタイの記事からいくつかのことを読み取りたいと思っております。

この福音書は主イエスさまがイスラエルのダビデ王家の末裔であることを明らかにします。そうすることでイエスさまが神さまの約束されたお方であることを保証します。その保証をさらに確実なものとするべく、神の聖霊が幼子の誕生に深く介入します。そこまでは比較的丁寧に記録されますが、誕生の場面についてはとても簡単です。それでマタイが丁寧な記録を続けるのはその後の出来事です。どのくらい後の出来事であったかも分かりませんが、東の方から博士たちが首都エルサレムにやってきます。彼らは星を手掛かりに辿り着き、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を礼拝するために来たのです。博士たちの来訪は礼拝がテーマになっています。


1. 人の枠を越えた礼拝

どこの国の何の博士たちかは分かりません。先週に続き、インドでは博士たちの一人はインド人だったと考える人々がおられるようです。福音書は彼らが何人でどこから来たのかについては何も教えてくれませんから、私たちは想像するしかありません。ただ、ここで肝心なのは彼らがユダヤ人ではなかったということです。「東の方」とはユダヤ人の間では南北に流れるヨルダン川の東側、他所の国というイメージを込めた言い回しです。そしてそこがまず、クリスマスを過ごすときに思いを傾ける真理です。ベツレヘムに誕生された幼子は、系図から言えばユダヤ人の王家の末裔ですが、マタイは幼子の誕生について、神さまのお約束が果たされたという意味ではダビデ王家の末裔だけれども、その治める範囲は民族や国境線によって区切られるものではなく、夜空を星が大きく渡るように東の彼方にも及ぶと謳っています。幼子イエスさまのお誕生は、すべての人を照らすそのまことの光として私たちにも届いているのです。ちょうど太陽の光が民族を選ばないように、豊かな雨が国境線に構わず降り注ぐように、預言者ミカが「わたしの民イスラエルを牧する」と告げた神さまの語り掛けは今やすべての人を分け隔てなく牧すると仰せになって、私たちをも招いているのです。インドの方々が博士たちのうちの一人はインド人だと言って想像力を膨らませることはあながち的外れではありません。あの東の方から訪れた博士たちを自分に当てはめて読むように、私たちは招かれているのです。


2. 星に導かれた礼拝

さて、この星の正体について中々はっきりしたことが分からず仕舞いです。この星の正体を暴くことがこの出来事の意味を説き明かす助けにはならないだろうと思うのです。ただ私たちはこの星が果たした役割について、今朝もう少し思いを巡らせましょう。この星の役割はただ一つ、博士たちをイエスさまの下に導く案内でした。神さまは、人を主イエスのもとにお導きなるためならば、ここまでなさるおつもりだということをお示しになられたのが星の出現でした。「万軍のの熱心がこれを成し遂げる。」とイザヤの預言にありますが、この星はまさに神さまの熱心の表れです。

そして神さまのその熱心は今日も冷めていないのです。いまだに神さまはその熱心をもって私たちをイエスさまのもとにお導きになられるのです。かつて星の光が東の博士たちを先導したように、今や聖書の聖言が、私たちをイエスさまへと導くのです。今年も私たちの教会が果たして来ましたつとめはこの一つに尽きると言ってよいでしょう。


3. 喜びをもたらす礼拝

さあ、博士たちの礼拝についていくつものことが読み取れます。3つの贈り物について、献げるということについて、神さまの導きに従うことについても学ぶことができます。今朝はその少し前に記されていることに心を留めてクリスマスをお祝いしましょう。

彼らが何故贈り物を献げ、神さまの導きに従ったのか、10節を読み返しますと、その動力となった鍵が記されています。喜びです。星が彼らを導いた幼子イエスとの出会いがこの上ない喜びとなった。イエスさまのもとへのお招きは喜びへの招きなのです。黄金や乳香、没薬、世のもたらす宝や富を差し出しても余りある喜びへの招きです。預言者イザヤも数百年前から預言していました。

「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられる。彼らは、刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜ぶ。」

私たちの日々の歩みに喜びをもたらす出会いが、主イエスとの出会いなのです。私たちの礼拝はその喜びをもたらす礼拝なのです。私たちの教会で献げられる礼拝が、献げられるたびに、集う私たち一人一人に真実の喜びをもたらしますようにお祈りしつつ、クリスマスをお祝い致します。



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