「キリストのことばを住まわせ」年末感謝礼拝
聖書 コロサイ3章12〜17節
2021年の歩みもここまで恵みによって導かれて参りました。年頭に今年はコロサイ3章16節の聖言を頂いてスタートを切ることが許されました。
「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。」
一年を締めくくるに当たって、恵みを数え、学んだことをお互いの心のうちに留めるときを持たせて頂きましょう。年頭には、標語聖句の意味合いを捉えることが中心的な目的となりましたから、段落全体に丁寧な目配りをすることは許されませんでした。実は数年さらにさかのぼって私が金沢教会に赴任を致しました五年ほど前、最初に皆さまと連講の学びをしましたのが、このコロサイ書でしたので、そのときに学んだことを思い返しながらお話をしたように記憶しています。今朝は改めて段落全体を見渡しながらキリストのことばがうちに豊かに住む、という世界について思いを傾けたいと思います。キリストのことばがうちに住む、その教会は何を目指している教会なのかということがこの段落の中で織り交ぜられるように描かれています。それらは「このようにしなさい」「あのようにしなさい」というお勧めのことばで綴られています。
1愛を身につけること
第一に愛を身につけること(14節)。衣服を身に着けるのには、様々な意味や目的があるでしょう。考えてみると身に着けるというイメージには何か、自分にないものを補ったり、加えたりする、というものがあるかもしれません。しかしここでパウロが愛を着けなさい、と述べているのはそういう意味ではありません。むしろその逆で、愛が自分自身の肌色となるように、愛が自分の性質と変えられるように、という祈りが込められています。キリストのことばが、コロサイ教会のうちに豊かに住むようにすることと、教会が愛を身に着けることとが直結しています。
この愛については12〜13節に掛けてそれはもう色とりどりの麗しい色彩が紹介されています。深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、さらに忍耐や赦しについても綴られています。その中の多くはマタイの福音書の中でイエスさまご自身も山上の説教でお話くださった品性や美徳です。それらを束ねる帯のように確かで完全な働きを果たす愛を私たち金沢教会がますます身に着けることを目指すように、私たちはこれからも押し出されているのです。
2キリストの平和が支配すること
さて、愛を身に着けることと並んで、次に語られているのは「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するように」という目標です。しかもそのために「あなたがたも召されて一つのからだとなった」と続きます。つまり私たちお互いが救われたのは一つのからだ、教会に結びつくことが望まれているということなのです。
平和が支配する、とは決して私たちが「平和」という名目のために、自由を奪われて身動きが取れなくなっているので争いも、競争も生じていない、そんな状態を指しているのではありません。「あなたがたの心を」とある通り、心から私たちがその平和に頷きをもって楽しむ、そういう交わりを目指すように私たちは招かれているのです。
スポーツ競技で審判がその競技を見守り、ときには厳しく判定を下し、ときには競技の進め方を指導し、その結果、選手たちが本当の意味で思い切り力を発揮し、自由に自分たちの能力の限りを出し、観戦する人々もその競技を楽しむことができる。そういうイメージの支配を思い描いて、審判が競技をスムーズに進行させるために鍵となる役割を担っているとすれば、教会の平和を保つために、審判者となってくださるのはいうまでもなくイエスさまご自身です。「キリストの」平和と言われているのは、まさに続く聖言の目印で、キリストのことばが豊かに私たちのうちに住むことと直結しているからです。イエスさまの聖言、主イエスの御心を確かに知らされ、豊かに宿らせることが、より自由で、平和を証詞する交わりを保証するのです。平和の支配と並べて「感謝の心を持つ人になる」ことが結び付けられているところもまた、その支配が私たちにとってどのようなものであるかを言い表しています。
3心からの礼拝
16節前半の標語聖句「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」に続けて、パウロはこう勧告しています。
「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」
いくつかのことが続けて記されていますが、全ては心からの礼拝に結びついています。私たちはここ数年、通常のかたちで礼拝をお献げすることが許されず、その中で私たちは、改めて礼拝とは何か、深く考える機会を得ました。教会のお交わりの中で改めて共通の理解を分かち合いながら、「心からの礼拝」を献げるところを目指してきました。キリストのことばが豊かに住むときに、私たちは信仰の健全な理解に導かれ、心を尽くして礼拝をお献げするところに辿り着くのです。
礼拝を越えて私たちが教会の交わりを確認して、それぞれの持ち場立場に向かう歩みは、その礼拝の延長線上にあり、キリストのことばによって豊かにされたものであり、キリストの平和を証詞するものであり、結びの帯として完全な愛を生きたものであるように、私たちは送り出されるのです。そしてこの聖言は私たちを新しい年へと送り出すのです。
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