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「キリストがうちに生きて」[新年聖会礼拝]

聖書 ガラテヤ書2章15〜21節


ガラテヤ人への手紙は、元ユダヤ教の熱心な教師、使徒パウロによって書き送られた手紙の一つです。ガラテヤ地方とは地中海の北側の一帯を指します。そこには古くからフリギア人と呼ばれる先住民族が暮らしていたり、そこにケルト民族が移住してきたり、さらにローマ帝国が繁栄した頃にはローマ軍が駐屯したり植民地として支配をしたり、という地域でした。新約聖書の時代のガラテヤ地方にはギリシャ文化をたしなむローマ人が他の民族と共にこの一帯に暮らしていた訳です。彼ら独特の文化や伝統があり、価値観があり、考え方があったのです。そしてそれらはいにしえから旧約聖書を重んじてきたイスラエル民族、ユダヤ人のものと随分異質なものでした。ユダヤ人はそういう異質な世界のことを「異邦人世界」と言いながら、あまり関わりを持たないようにしていました。さらに言えば、ガラテヤの人々を含め彼らは「罪人」の世界と言うくらいです。今朝お読みしたところに早速そんなおことばがあります。

「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、『異邦人のような罪人』ではありません。」(15節)

わざわざ異邦人のような罪人がカギカッコで括られていますのは、このような見方がパウロ自身の考え方ということではなくて、一般的なユダヤ人がガラテヤ人のような異民族について言う表現だったことを表しています。明らかにパウロは、ガラテヤ人のことを「異邦人のような罪人」というレッテルを貼ることについてはてなマークをつけているのです。

「異邦人のような罪人」とは必ずしも犯罪者であるとか、悪どい人だという意味ではありません。聖書によって明らかにされた神さまに関心を示さず、敬い愛することなく生きる人々を指していることばです。私たちはここしばらく礼拝で創世記をご一緒に読んで参りましたから、イスラエル民族がどれだけ神さまに対して恩義を感じているのか、ある程度理解できるのではないかと思います。彼らはそのような神さまに喜ばれようとして、その神さまが偉大な預言者モーセに御与えになった律法をきちっと守って生きる生き方をしてきたのです。律法というと何か堅苦しいルールブックのような印象を抱きがちですが、ユダヤ人にとっては神さまから頂いたプレゼントだと感謝していたのです。

さて、イスラエルの民がそこまで神さまに愛され顧みられて来たのは、神さまがイスラエルの民を愛されるその様子を見ることで人々がだれであれ、なるほど神さまがどれだけ人を慈しみ祝そうとしておられるのかを悟るためでした。人をあらゆる不幸から救い出して幸いを得させてくださること、それだけを望んでおられる。聖書はこのことを「罪からの救い」と言い表しています。この罪からの救いを裏返して言い表したのが「義と認められる」という言い回しです。私たちに当てはめて言えば、クリスチャンらしい生き方をしていることを「義と認められる」と言い表しているのです。神さまご自身が

パウロもユダヤ人で、実に律法の専門家でもあったので、ユダヤ人がどのように考えているかは手に取るようにわかるのです。それで彼はそのことをここで紹介しているのです。しかもそれはクリスチャンらしい生き方の良い模範として、ではなくて反面教師として紹介しているのです。何故そうするかというと、彼の同胞が陥ってしまった脱線は、ユダヤ人だけでなく、人ならばだれでも陥りやすい脱線だからです。それで彼はある意味恥を忍んでこのような思い違いに陥ってしまってはならない、とガラテヤの兄弟姉妹たちを戒めているのです。

神さまを信じる人らしい生き方、クリスチャンらしい生き方とはどういう生き方なのか。ユダヤ人の仲間たちはこう考えたのです。私たちは神さまにこの上なく愛されている。そしてその証として素晴らしい『律法』を頂いた。この御教えに従って生きるならば間違いなく救われる。それで彼らは律法を丁寧に学び、それらを仲間たちが守れるようにさらに細かくアドバイスやら注意事項やらを加えていったのです。私たち風に言えば「一言われて十を悟れ」というようなところでしょうか。そして彼らは、それらの教えに従って生きなければ救われない、と戒め合うようになったのです。実はここに大きな脱線が起きてしまったのです。

一見すると理屈としてあっているように聞こえます。律法が彼らにとって頼りになる道しるべであることは間違いありませんが、彼らがそもそも救われたのは、律法ありきの話ではなかったはずです。パウロは人が救われることを「義と認められる」という言い回しで表現していますけれども、この表現は私たちも学んだアブラハムの経験を想起させます(創世記15章)。子孫繁栄を約束された神さまの聖言の通りに現実が運ばないように感じられたときに、神さまは彼に夜空の星をお見せになって今一度「あなたの子孫はこのようになる」と仰せられたのです。そのとき、アブラハムは覚悟を決めるように、主を信じたのです。神さまがそう言われたのだからその通りになるのだ、と。そのときに「それが彼の義と認められた」と書いてあるのです。元祖人が義と認められた、救われたのは、神さまに信頼しようと心を定めたときだったのです。それ以来人は、神さまを信じて義と認められる、救われるということを教えられたのです。人が義と認められるのは、人が救われるのは、ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、ローマ人であれ、ガラテヤの兄弟姉妹たちであれ、そして金沢教会に連なる私たちであれ、神さまを信じることによる、それが福音なのです。

いつのまにかその福音が「律法の教えに従わないと救われない」という話にすり替わってしまったのです。例えば割礼という儀式や食材の浄不浄、遵守すべき暦等々。それでガラテヤの兄弟姉妹たちは戸惑い始めたのです。神さまがお約束になられた救い主イエスさまを信じるだけでは救われないのか、と。パウロが文字を大きく書きつけて戒めたのはここでした。

人が救われて、その救いを全うするのはあくまで神さまに信頼する信仰だけによるのだ。クリスチャンらしい生き方とは、神さまが送ってくださった救い主イエスさまを信じて一歩一歩を踏みしめる生き方だ、と。人々がクリスチャンを見て、何を見出さなければならないのか。ガラテヤの兄弟姉妹たちが何をするにも、どのような問題・課題に直面するにも、なるほどイエスさまに頼っているという生き様が人々の目に止まることが、そして何よりも自分たち自身の自覚に深く刻まれていること。それが義と認められた人々、クリスチャンらしい生き方なのです。

この自覚を保つため、クリスチャンらしく生きるのに鍵となる聖言が20節のおことばです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

キリストが私のうちに生きておられる。私のためにいのちまで差し出してくださった主イエスを信じる、とはそのイエスさまが私のうちに生きておられると意識すること。私が生きる原動力となって日々の歩みに私を押し出す力は、私のうちにキリストが生きておられるという意識から来るのです。私の日々の歩みを支えるのは、いつでも私は主イエス・キリストを信頼している、という自覚です。そのほかに私たちの平安の根拠、私たちの喜びの源、私たちの確信の土台が見え隠れしてきたならば、速やかに私たちは、心の内側を確認して、「いや、『キリストが私のうちに生きておられるのです』」と告白するように、と私たちは招かれているのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました」(19節後半)とはその告白が徹底している、という意味です。少々極端な告白です。そこまで言わなくても「キリストが私のうちに生きておられる」と自覚できるだろう。

ところが実のところ、そうでもないのです。人は思いの外弱い存在で、神さまのために、隣人のために、教会のために、福音のために、と熱心になればなったで、イエスさまを信じる信仰だけでは何か足りないような錯覚に陥るのです。それでパウロの同胞のユダヤ人の律法に対する熱意について、彼らの熱心は健全ではない、と戒めなければならなかったのです。何せパウロ自身にも思い当たる節がありました。彼自身も律法の専門家で、旧約聖書を徹底的に読み込んでいました。それで、その熱意が彼を暴走させて、彼はイエスさまが救い主であって、イエスさまを信じる人々ならだれにでも分け隔てなく救いを与えてくださる、ということが見えなかったのです。ユダヤ教に忠実でない信仰の表現を頑として受け入れることができず、挙げ句の果てには誕生して間もない教会を次々に迫害したほど熱心に神の律法と御心を実践している、と思い込んでいたのです。

私たちは恐らくかつてのパウロのように極端に暴走することはないかもしれません。しかし、イエスさまに信頼すること、キリストが私のうちに生きておられる、という自覚から逸れて、これだけ聖書を読んだから、これだけ篤く祈りが捧げられるようになった、これだけ人をイエスさまにお導きすることができるようになった、と数え始めますと途端に私たちは行き詰まってしまうのです。多くを献げ、働きを果たせるようになれば、自分に課す重荷はますます増大するばかり。逆に自分が思い願うところまで達成しませんと、自分に失望してしまう。矛先が愛すべき隣人に向けられると、これもまた心痛む結果になります。私たちの隣りの兄弟姉妹が私たち以上に奉仕をしますと平安を失ってしまったり、逆に自分と同じ情熱で奉仕に加わってくれませんと、隣人に失望してしまったり。そして最後には神さまにまで矛先が向けられて、何で神さまは私にこれほどの重荷を担わせなさるのだろうか、と訴えたくなったり、逆にこんなにやる気があるのに働きを担わせてくれないなんて、私はそんなに期待されていないのか、という失意に陥ったり。

そのような逸脱がどれほど信仰者を苦しめ、悲しませ、神さまが私たちのために備えてくださっているクリスチャンらしい生き方から離れてしまうのか、パウロは身をもって知っているのです。そして人がどれだけたやすくそのような落とし穴に陥りやすいのかを弁えているのです。それで彼は謙虚になり、またお互いにへりくだって「自分はイエスさまとともに十字架につけられた」と見なそう。そして折あるごとに私が今生きているのは、生活をしているのは、学んでいるのは、お仕事をしているのは、家庭で、地域で、そして教会で役割を担わせて頂いているのは、イエスさまが私のうちに生きておられるからなのだ、そのように自覚しよう。その時にこそ私たちは十分にクリスチャンらしい輝きを放つことが許される。私たちは豊かに神さまから注がれる恵みに満ち足りた歩みを続けることができる、そう私たちを招いているのです。

そしてこの招きこそが今の私たちに神さまから与えられている福音です。私たちはイエスさまの十字架によって罪を赦されて義と認められた。今、私が力いっぱい生きていけるのは、イエスさまが私のうちに生きておられるから。2021年、どのような年になるのかわかりませんが、それでも勇気を与えられて、気力を与えられて踏み出しているのは、キリストが私のうちに生きておられるから。そのようにお互い確認しながら前進を続けようではありませんか。

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