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「わたしの父の御心を行う者」受難節④、マタイ福音書連講[047]

聖書:マタイ7章21〜23節


 イエスさまはここでいよいよ人々の目をご自身に向けるように促しなさいます。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者」と仰せになり、さらに天の父なる神さまについてここで初めて、イエスさまは「わたしの父」とお呼びになります。そしてこの場面を皮切りに、マタイの福音書の中では何度も神さまのことを「わたしの父」とお呼びになります。

 これまで山上の説教の中で幸いな生き方、報われる人生、実り豊かか歩みについてお話になられた主はいよいよ山上の説教を結ぶに当たって、これらを聞いて満足したり感動したりして終わるのではなく、行動に移しなさい、と迫っておられます。神さまからおことばを預かって伝える預言者たちを見極める、これはイエスさまが目の当たりになさっている群衆に対する戒めであり、またこの福音書を手にした初代教会の兄弟姉妹たちに迫る戒めであり、そして今朝もこの福音書に耳を傾ける私たちへの戒めとなっています。私たちはイエスさまの戒めに耳を傾けながら、イエスさまご自身が山上の説教を説き明かしながら、まさに預言者としての尊いみわざを果たしておられることに気付かされたことです。いよいよ3つ目のステップに入って、イエスさまはご自身を指差しなさいます。

 真実の預言者はあなたの隣人に、兄弟姉妹に、あなたの身の回りの人に、そしてあなたを迫害する者、あなたの敵にも「何でもしなさい」と迫ります。しかし、「何でも」とは文字通り思いつくままに、好き勝手にということなのか、といえばそうではなく、どのような行動に移すことが祝福なのかを主は説き明かしなさいます。今朝の鍵句はですから間違いなく21節の後半「天におられるわたしの父のみこころを行う者が(天の御国に)入るのです」です。

 いの一番にイエスさまが戒めておられるのは「主よ、主よ」と言う人々のことです。イエスさまのことが「主」と呼ばれるのもこの段落が初めてです。これを皮切りに、マタイの福音書でもイエスさまが繰り返し「主」と呼ばれるようになります。いろんな人々が「主よ」とイエスさまの元に来て、癒しや助け、救いを求めている様子が描かれます。皆、イエスさまには何か著しく秀でた方であること、尊い方であって、敬意を表さなければならないと認めているのです。イエスさまは決してそれでは敬意が足りない、とご不満を漏らしておられるのではありません。世の中ではむしろそう言った道理があります。言うだけでやらないのはだめだ。「口先だけの人」と言うのは決して褒め言葉にはなりません。イエスさまが本当のところ「主」と呼ばれるに相応しいお方だということに気づく人々が限られている現実がありますし、イエスさまはご自身のことを「仕えられるためにきたのではなく、仕えるためにきた」とお話しになって「主よ、主よ」と認められるためにきたのではないと言われているのです。本当に主と仰がれるに相応しいお方です。そのようなイエスさまを主と仰ぎ、「主よ、主よ」とお呼びすることは素晴らしいことです。

 そこで先ほど触れました「わたしの父」が輝きます。イエスさまはここぞと言うところで、イエスさまご自身と天の御父との結びつきを明らかになさったのです。あなたがたの父なる神さまの御心を行うことと、わたしを主よと仰ぐこととが一つに結びつくのです。イエスさまは私たちが神さまの御旨に従うための模範であられるだけでなく、私たちが従うべきお方そのものであられるのです。私たちはイエスさまに倣って御旨に従うだけでなく、イエスさまご自身に従うように招かれているのです。かつて神さまが「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と宣言されたその御声に応答なさるかのように、イエスさまはここで天の神さまのことをわたしの父と宣言されたのです。神さまは変貌山の上でモーセやエリヤが現れた後に雲の中から同じ御声を発せられて「彼の言うことを聞け」と弟子たちに語られました。イエスさまが神さまのことを「わたしの父」と言われるとき、それはご自身と天の神さまとが一つであられることを宣言しておられるのです。イエスさまのおことばはそのまま神さまの御心なのです。イエスさまの語られたおことばに全幅の信頼を置いて聞き従うことが神さまの御心を行うことそのものなのです。さらに最後の審判のときに(その日)審判者となって御国に入る人々を定めるのが「わたし」だと明かされます。その審判者のおことばに聞き従うことほど確かなことはないでしょう。  

 さて、御国に入れないと審判を受けた人々は何が問題だったのでしょうか。彼らは確かに主の御名によって、主のわざ、よいわざを果たしてきたのです。彼らのわざそのものが図られた訳ではないことは明らかです。彼らに致命的なことがあるとすれば、それは彼ら自身が自らの生き方にあまりにも自信を持っていたところです。彼らは自らの手のわざについて問いかける余地を与えなかったのです。イエスさまが繰り返し私たちに「求めなさい」「求めつづけなさい」と招いて来られたのに、彼らは、求めなかったのです。決して神さまの御心を見極めることが容易だとイエスさまは仰せになっていません。ただ、聞くことです。イエスさまの語り掛けに耳を傾けて聞くこと。そして問い掛けることです。私の父の御心を行うとはイエスさまに聞いて従うことに他なりません。

 「わたしから離れて行け」冷淡に切り離す断罪のおことばではありません。耳を傾けようという余地も心もなく、ひたすら暴走する末に神の国と神の義から自ずと遠ざかる人々を憂えている主の嘆きではないでしょうか。

 イエスさまはそのような御心をもって群衆に向い「わたしの父の御心を行う者を、わたしがこの手で天の御国に迎え入れる」と招いておられます。この1週間もその御招きに信仰を働かせて聞き従いましょう。

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