「よみがえらせた神の力を信じる」イースター礼拝
聖書:コロサイ人への手紙2章6〜15節
「どうして生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだ、ガリラヤにおられたころ、主がお話になったことを思い出しなさい。」(ルカ24:5〜6)
この知らせを受けた女性達は一目散に仲間のところに駆け込み、見聞きしたことを報告します。始めは信じる事のできなかった弟子たちでしたが、主は彼らに現れて下さり、次第に主が甦られたというメッセージが広がり始めます。このニュースは広がりながら人々に迫り、人々を変えていきます。やがてペンテコステの出来事を経て、福音は爆発的な広がりをみせることになります。その延長線上に私たちの教会も据えられている訳です。
さてイエスさまがよみがえられたという知らせが、どのようにして私たちを変え、私たちの人生を変えるのでしょうか?今朝は初代の教会に仕えた使徒パウロのメッセージから、福音の鍵を見せて頂きましょう。使徒パウロはクリスチャンになったとは、言い換えれば「主イエス・キリストを受け入れた」人たちだと言い表しています(6節)。イエスさま以後の人々は神さまを信じて神の国に加わるときにバプテスマを受けます。それで、その洗礼という儀式と、イースターの出来事が直結している、と使徒パウロは今朝御読みしたところで説き明かしています(12節)。洗礼は、二つのことを表していると説明します。
「キリストとともに葬られた」ということ、そして「キリストとともによみがえらされた」ということ、死といのちです。どちらもキリストとともに体験する恵みです。十字架の後から三日目までの出来事を再現しているのです。再現することで、私たちは皆、「キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰」を証詞しているのです。私たちがクリスチャンになる理由や動機、その経緯は千差万別ですが、一つ皆が共通して信じていることがある。私たちの神さまにはいのちを新しく与える御力があるということ。神さまはいのちを与えてくださる方だと信じるから、私の人生を新たに踏み出すことができる、私は変わることができる、と希望を抱くのです。神さまについてこの信仰を土台にしているのです。イエスさまにいのちを与えてよみがえらせなさった神さまのみわざについて、私たちは何をどう信じるように招かれているのでしょうか。2つのことが表されている、と先ほど触れました。
Ⅰ 神の力によって罪と決別
一つ目は埋葬です。バプテスマ(洗礼)にはいくつかの形体がありますが、そもそもは水に全身を浸すのがオリジナルです。そうすることで死と埋葬を表しています。埋葬とは、自分が背きの罪によって死んだ者だったと認め、そのような根深い罪との決別をすることを意味します。
(1)人の手によらない:キリストによる
その決別についてもう少し丁寧に読みますと、11節には人の手によらず、キリストご自身によって施される割礼に例えられる、ということが記されています。強調されているのはイエスさまが実現してくださったということ。2000年前、十字架の上で主イエスは確かにいのちを差し出されたのです。それまでの30年余りの生涯に終止符が打たれたのです。埋葬された主イエスのおからだと同じように、私たちの歩みも罪の中で、神さまの御前では死んだものだと認める信仰を、洗礼は表現しています。いのちを与えなさる神さまの御力を信じる信仰の中に、私は今イエスさまの死と同じ次元で、これまでの生き方と決別をしますという覚悟が含まれています。これまでの罪深さに終止符が打たれるのです。キリストとともに葬られた、が意味する所です。
(2)解放をもたらす割礼
しかしこの死は、決別と同時に解放をもたらす恵みです。私たちを責め立てるあらゆる罪責からの解放です。私たちが主にあって、本当に悔い改めて、赦されたのならば、断じて私たちを追い立てる、責め立てる罪責に思いを奪われて、キリストとともに葬られた事実について疑ってしまってはなりません。私たちは徹底的に解放されたのです。その負い目はすでに無効になっているのです。このこともあのことも十字架に釘付けにされている。かつての罪に対する敗北や罪に囚われた過去はもう私たちを煩わせる黒歴史ではなく、今イエスさまにあって与えられた自由と解放を彩る装飾品なのです。キリストとともに葬られた、とはそのことを意味しています。
Ⅱ いのちを与える神の力
それからパウロは「キリストとともによみがえらされた」と語っています。私たちの生きる動力が神様にある事が明白に記されている聖言です。救い主イエスさまは神様が死者の中からよみがえらせなさったのです。神様こそが私たちのいのちの源であることを明らかにしたのがイースターの出来事でした。罪に生きていた私たちが死んだときに、私たちのうちに新しい動力を与えて下さったのです。果たしてそのようなことがあり得るのか、と問われるときに私たちは、「キリストを死者の中からよみがえらせた神さまを私は信じている」と応えるのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、私もまたキリストとともによみがえらされた。これこそが福音です。
神さまはいのちを与えなさるお方だということを救い主イエスさまのよみがえりは明らかにしました。しかし、福音のクライマックスは、いのちを与えることがおできになる神様が、私たちにいのちを与えなさる、という事実です。そして、いのちを与えて下さった神様は、そのいのちを豊かに溢れさせてくださるのです。それで私たちはイースターを祝うのです。祝福をお祈りします。
Comments